鎌倉時代の名前の由来はどこにあるのでしょうか。
また、なぜ源頼朝は鎌倉に幕府を開いたのかについて考えてみましょう。
鎌倉時代の名前の由来は?
日本史においてそれぞれの時代にはそれぞれの名前がついていますが、鎌倉時代の名前の由来は何だったのか気になる人も多いのではないでしょうか。
実はこの理由は非常に簡単であり、幕府を開いた土地が鎌倉だったから、「鎌倉時代」となったのが名前の由来とされています。
鎌倉は神奈川県にありますが、鎌倉時代当時もこの土地のことを鎌倉と呼んでおり、それは「鎌倉街道」と名前の付く街道があることもからも分かるように、鎌倉時代から幕府を開いたその土地は「鎌倉」だったことが鎌倉時代の名前の由来と言えるでしょう。
なぜ源頼朝は鎌倉に幕府を開いたの?
鎌倉時代の名前の由来は理解できたと思われますが、なぜ源頼朝は鎌倉に幕府を開いたのでしょうか。
天皇がいる朝廷からは非常に遠く、また現在のように観光地でもない辺鄙な田舎であった鎌倉に、なぜわざわざ幕府を持ってきたのでしょうか。
その理由としては、まず鎌倉が源氏のゆかりの地であったことが由来とされています。
加えて、その当時の鎌倉には源頼朝に味方をする武士や仲間がたくさんいたことも幕府を開いた理由の一つであり、三方を山々に囲まれている土地であるため敵からの襲撃を受けにくかったのも理由とされているようです。
その他に考えられる理由としては、権威の象徴である天皇と、権力を握っている自分たちがいる場所を分立させたかったというも鎌倉に幕府を開いた理由でもあります。
つまり、数多くの理由から源頼朝にとって鎌倉に幕府を開くのは都合が良かったということになります。
鶴岡八幡宮は明治時代に破壊された?
鎌倉市にある有名な寺社といえば鶴岡八幡宮ですが、武家源氏、鎌倉武士の守護神として建立され、実は現在の数倍の規模の大きな寺社だったとされています。
それが、明治時代に一度すべてを破壊され現在のサイズになってしまったことをご存知でしょうか。
鎌倉時代だけに限らず、戦国時代やその他の時代においても鶴岡八幡宮は何度も焼失し壊れたりするたびに再建を繰り返し、幕府は保護を続けてきました。
しかし、明治時代に入って天皇を神格化しその神道のみを国教とする大教宣布がなされるようになると、鶴岡八幡宮を始めその他の寺社にも廃仏毀釈の考えが強まり、仏堂はもちろん仏具や仏像、経典や什宝等もすべて破壊、焼却処分されることとなったのです。
本来は日本にあるはずの鎌倉時代の仏像が外国のコレクターの所有となっていたり海外の美術館に保存されているのはそのためだとも言われています。
明治時代にそんなことをしなければ、今現在も鎌倉時代の仏像は、日本の国宝として日本の博物館で気軽に見に行くことが出来たかもしれませんね。