源頼家が関わる「比企能員の乱」の経緯、そして北条氏との関りとは?

「比企能員の乱」とは、鎌倉時代初期に2代将軍源頼家の外戚として権力を握った比企能員とその一族が、北条氏の謀略によって滅ぼされた政変のことです。

今回は比企能員の乱と、源頼家そして北条氏とのかかわりについてご説明します。

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比企能員の乱がおこった背景と源頼家

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の急逝によって18歳の嫡男・頼家が跡を継いだのですが、着任後数ヶ月で北条氏の手によって頼家の訴訟の採決権を止められ、13人の合議制が敷かれました。

そのことに頼家は反発し、自分の近習を通さないと話を聞かないと主張するのですが、北条氏は頼家の後ろ盾である比企氏を蹴落とし、一気に権力を奪おうとするのです。

13人の合議制が成立して数か月後、頼家の側近であった梶原景時が御家人らの糾弾により失脚し、一族と共に滅ぼされる事件が起こりました(梶原景時の変)。

梶原景時亡き後頼家を支えたのは、頼家の乳母父であり舅でもある比企能員で、比企能員の娘の若狭局は頼家の側室であり嫡男の一幡を産んだことによって、将軍家の外戚として権勢を強めていきました。

そしてこの比企氏の台頭に危機感を持ったのが、北条時政(頼家の祖父)と頼家の母・北条政子でした。

頼家・比企氏と北条氏との確執

源頼家が生まれた時に、父・頼朝はとても喜び周囲の祝福を一身に受けました。

しかし頼家が12歳で初めて鹿を撃ち、父・頼朝はとても喜んで妻・政子に報告の使いを送るのですが、政子は「武将の嫡子なら当然のこと」として使者を追い返したと伝わります。

こうした逸話から、政子は初めから頼家をあまり好ましく思っていなかった、そしてその周囲にいる梶原氏や比企氏が幕府内のライバル関係だったこともあり、北条氏は一刻も早く3男の実朝を将軍に就かせたかったと考えられます。

こういった話は、幕府の歴史書である「吾妻鏡」に基づいて現代に伝わった話です。

しかし実は「吾妻鏡」は全般的に北条氏びいきの内容であるとされています。

なので、比企能員の乱は頼家と比企氏の専横に対して北条氏が反発した、というよりも初めから北条氏の画策だったというのが真実なのではないかといわれています。

比企能員の変、その後

1203年7月、頼家は体調を崩し一時は危篤状態にまで陥りました。

すると北条氏は、まだ頼家が生きているにも拘らず家督相続の話が進められて、北条氏は頼家の息子である一幡を差し置いて、頼家の弟・実朝を将軍にしようと画策するのです。

その企みを知った頼家と比企能員は激怒、北条氏の打倒を謀るのですが、比企能員はその計画を謀反と見做した北条氏に討ち取られてしまうのです。

それが比企能員の変という政変で、比企一族も根絶やしにされて幼い一幡も弑されてしまうのです。

そしてその後、頼家と北条氏の軋轢は激化し、北条氏によって頼家は無理やり修善寺に幽閉されて暗殺されてしまいました。

北条氏はライバルである比企氏を蹴落として頼家と共に滅ぼし、北条氏の目論見通り3代目将軍として北条氏の推す源実朝が選ばれることになります。

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