建長4年(1252年)後嵯峨天皇の第一皇子である宗尊親王が鎌倉幕府第6代将軍に就任し、初の皇族将軍が誕生しました。
そしてその宗尊親王は、周囲に人生を翻弄されて、結局は追放されてしまうのです。
今回はその宗尊親王の生涯と、追放の経緯についてご紹介していきます。
初の皇族将軍・宗尊親王その頼嗣も
源頼朝は源平の合戦で勝利し、後鳥羽天皇のもとで初代征夷大将軍となって鎌倉幕府を開きました。
しかしこの頼朝の直系の将軍は、2代・頼家、3代・実朝と、わずか3代で絶えてしまうのです。
そのため、事実上幕府の実権を握る頼朝の正室・北条政子とその弟である2代目執権・北条義時は、実朝の妹(坊門姫)の曾孫である九条家の藤原頼経を、頼朝の娘・竹御所と結婚させ、第4代将軍に据えました。
藤原頼経は傀儡の将軍ではありましたが、頼家の父である九条家が朝廷内で実権を握ることになってしまいました。
九条家と北条氏、そして頼経と執権・北条常との関係が悪化していく中、将軍職は頼経の嫡男である頼嗣に譲られます。
しかし謀反未遂事件に父・頼経が関与していたとして頼嗣は将軍職を追われ、建長4年(1252年)に第6代将軍に就任したのが、後嵯峨天皇の第一皇子である宗尊親王なのです。
宗尊親王が将軍になった理由
宗尊親王は後嵯峨天皇の第一皇子ではありましたが、母の身分が低いために長男とはいえ皇位を継ぐ可能性は低く、それを後嵯峨天皇は不憫に思っていました。
その後嵯峨天皇の想いと、九条家の力がこれ以上拡大するのを危険視した北条氏との利害関係が一致したことが、宗尊親王を将軍にした理由だとされています。
しかしそれは、見方を変えると宗尊親王は将軍になっても何もすることがない、ということを示しています。
政治に関与しないお飾りの将軍、それが宗尊親王に与えられた立場だったせいか、宗尊親王は歌会を頻繁に催し、鎌倉歌壇でも歌の名手として知られるようになりました。
宗尊親王は文応元年(1260年)には前執権・北条時頼の猶子である宰子と結婚し、その4年後には長男の惟康王が誕生しました。
その頃から宗尊親王は少しずつ自ら政務を行おうとするのですが、それに対して新執権・北条政村らが警戒し始めることになります。
宗尊親王、追放の経緯
宗尊親王が25歳になった文永3年(1266年)、正室である近衛宰子と僧・良基との密通が噂となり、それを口実に謀反の嫌疑がかけられてしまいます。
しかしこの謀反疑惑は、誰が企てているなどの具体的な人名もなく根拠が薄いものであり、単なる言いがかりともとれるものでした。
しかしこの噂に執権・北条政村らは反応し、一月もたたないうちに宗尊親王の征夷大将軍を廃して、宗尊親王は京都へ送還されてしまいました。
京へ送還された宗尊親王は大変痛憤して、歌を詠みました。
帰りきてまた見んことも固瀬川 濁れる水のすまぬ世なれば
虎とのみもちいられしは昔にて 今はねずみのあなうよの中
虎として用いられた昔もあったが、傀儡にされ、ネズミのような扱いを受けることになった、そういった悲しい心情と自負心が読み取れる歌だと思われます。
宗尊親王はその後、父・後嵯峨法皇の崩御に伴い出家し、文永11年(1274年)に33歳でこの世を去りました。