皇族将軍・宗尊親王の生涯、そして和歌との深い関りとは?

宗尊親王は、鎌倉幕府第6代将軍であり皇族で初めての征夷大将軍です。

今回は和歌に造詣が深かった宗尊親王の生涯と、詠んだ和歌からうかがえる宗尊親王の心情をご紹介していきます。

スポンサーリンク
kamakura-jidaiレクタングル大

皇族将軍・宗尊親王

宗尊親王は後嵯峨天皇の事実上の長子でありましたが、母の身分が低いために皇位継承の望みはほとんどありませんでした。

その頃の鎌倉幕府は、5代目将軍・藤原頼嗣が九条家の出身だったこともあって、執権である北条時頼は頼嗣将軍と九条家を政界から排除したいと考えていました。

ここで宗尊親王の将来を危惧した後嵯峨天皇と、北条氏の思惑が一致して、藤原頼嗣そして九条家を追放し、宗尊親王を皇族将軍に立てたのです。

将軍になったとはいえ、幕府はすでに北条氏による専制体制が出来上がっていたために、宗尊親王には何の権限や決定権はありません。

それを憂いたのか、宗尊親王は和歌の創作に打ち込むようになり、歌会を頻繁に行いました。

歌人としての宗尊親王

宗尊親王が歌を詠むことに熱心だったために、鎌倉における武家を中心に歌壇が隆盛を極め、後藤基政・島津忠景ら御家人出身の有能な歌人が輩出されることになりました。

宗尊親王は、弘長元年(126年1)正月に、藤原顕氏・真観・北条長時等を集めて和歌会はじめを行い、同年7月には自邸で百五十番歌合を催します。

その時の判者は、在京の藤原基家です。

真観らが撰者に加わった文永二年(1265)奏覧の「続古今集」では、宗尊親王が最多入集歌人となりました。

宗尊親王の代表的な歌集に「柳葉和歌集」「瓊玉和歌集」「初心愚草」があります。

和歌からうかがえる宗尊親王の心情

宗尊親王は多数の歌を詠みましたが、将軍時代とそれ以後では使う語句や作風が少し違うことに注目されています。

宗尊親王が詠んだ歌のなかには、「つらし」「かなし」などの悲哀を表す語句が多数使われており、青年期の宗尊親王は将軍の地位に就きながらも自分の立場を憂いていたことが読み取れます。

地位も身分も高く何不自由なく暮らしているように見える宗尊親王ですが、心の中では自分は北条氏の傀儡であることに対して、我が身を嘆いていたと推測されます。

そして将軍を解任され京都へ送還された宗尊親王の詠んだ歌にも「なげく「うらむ」などの語句が使われていますが、将軍時代とは少し違った形になっていると思われるのです。

将軍時代の嘆きは感傷的で漠然としたものなのですが、周囲に翻弄された将軍解任後は「こんなことになるとは予想していなかった」という、自分に降りかかった出来事に対して本音を吐露したもの、そういった解釈がなされています。

そして敬愛していた父・後嵯峨法皇が亡くなった後は、その悲しみを叙情的に表すようになり、宗尊親王が人間的に成長して歌風も落ち着いたといわれています。

自らの意志と関係なく権限のない将軍にまつり上げられ、そして突然解任させられるという嘆きを、宗尊親王は歌に託して詠み続けていたといえるのではないでしょうか。

スポンサーリンク
kamakura-jidaiレクタングル大

kamakura-jidaiレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする