源頼朝は、平氏を討って武士による鎌倉幕府を開いた人物です。
今回は源頼朝の出身地、そして生涯と死因について簡単に説明していきます。
源頼朝の出身地は?
源頼朝といえば鎌倉、というイメージが強いのですが、出身地は鎌倉ではありません。
源頼朝は、父・源義朝の3男として生まれ、出生地は現在の名古屋市・熱田とされています。
名古屋市にある熱田神宮は、三種の神器の一つである草薙剣を祀る格式の高い神社で、頼朝の出生地は熱田神宮と道を隔てた誓願寺とされています。
誓願寺は熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸で、頼朝の母はその藤原季範の娘の由良御前です。
頼朝には多くの異母兄弟がいましたが、頼朝の母が一番身分が高かったため、三男でありながら頼朝が源氏棟梁の座を引き継ぎました。
誓願寺には、現在では頼朝生誕地の石碑と立て看板があるのみで建物は残っていませんが、立派な山門が当時の風情を残しています。
源頼朝の簡単な経歴
父・源義朝の三男として生まれた源頼朝は、父と共に平清盛と戦いましたが敗北、父は討たれ、頼朝は伊豆に流刑になってしまいました。
平氏の監視下で過ごした伊豆の時代に北条政子と知り合って、周囲の反対を押し切って政子と結婚しました。
その後頼朝は、妻・政子の父である北条時政らと共に平氏に向かって挙兵、平氏に不満を持つ武士が全国から集まります。
頼朝は平氏との戦いを弟・義経に任せ、頼朝自身は鎌倉幕府の政治の基礎を作ることに励みました。
壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、軍功をあげた義経でしたが、その後の勝手な行動で頼朝と義経は対立、頼朝は義経を鎌倉から追放します。
そして頼朝は1192年、日本で初めて武士による政府である「鎌倉幕府」を開きました。
ちなみに、源頼朝・義経とも身長は低かったものの、整った綺麗な顔であったと伝えられています。
源頼朝の最期と死因
源頼朝の死因については諸説あります。
・馬から落ち、頭を打ったために亡くなった
・北条氏による暗殺
・糖尿病・尿崩症などの病気によって亡くなった
馬から落ちて亡くなったという説に関しても、その前に脳梗塞や脳溢血などで意識が亡くなり、それによって落馬したともいわれています。
尿崩症も、脳の中枢神経が何らかの理由で損傷した場合に起こる病気で、他にもいくつかの説がありますが、現在となっては直接の死因を確定するのは不可能だと思われます。
源頼朝は建久10年(1199年)1月11日に出家、そして1月13日に死去、享年は53歳でした。
奇妙なことにこれほどの人物であった源頼朝の死は、鎌倉幕府の公式史料「吾妻鏡」にほとんど記載されていないのです。
初めて吾妻鏡に頼朝の死去が記されているのは、3代目・実朝の時代になってからで、頼朝の死から13年後になります。
それも現在でも頼朝の死因がはっきりしない理由であり、葬儀や埋葬の記録もないことから、「鎌倉幕府初代将軍」の墓も謎のままとなっています。