鎌倉幕府第2代将軍・源頼家は、元久元年(1204年)7日18日に幽閉先で暗殺されてしまいました。
今回は、いまだに謎が残る、頼家を手に掛けた暗殺者についてご説明していきます。
「吾妻鏡」に残る、頼家暗殺事件の謎
鎌倉幕府を創設し、日本で初めて武家の政権を樹立した源頼朝と妻の北条政子は歴史上の偉人として有名ですが、2代目・3代目に関してはあまり触れられていません。
鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」には、「本日、頼家殿が亡くなりました。」というそっけない記述にとどまっています。
この記述は、鎌倉幕府の2代目、頼朝の後継ぎという重要な立場の人物の扱いにしてはあまりにも粗略だといえます。
吾妻鏡に関しては数々の謎が残っており、何も記載されていない時期があったり、このように首をかしげるような記述も残っているのです。
ただ、吾妻鏡は一貫して北条氏を持ち上げるような記述が多くなっており、北条家にとって不都合な事実は削除されていると思われる部分もあります。
つまり、頼家の暗殺に関して詳しい記述がないということは、ここに北条氏が暗躍していたということを示しているのではないかと推察されるのです。
源頼家、修善寺にて暗殺される
源頼家は、頼朝と北条政子の嫡男で幼いころから次期将軍として育てられました。
父・頼朝が急逝したことによって17歳で2代将軍の座についた頼家は、初めは意欲的に政務に取り組むという姿勢を見せていました。
しかし北条氏は、頼家の権力を持つことに危惧し、御家人たちの合議制で政治を行うことにし、頼家と北条氏の間の確執は深まっていくのです。
そこには、頼家の側室・若狭局が比企氏という有力御家人で、比企氏の地位が上がってしまうと北条氏の権力が落ちてしまうという背景がありました。
そして北条氏は、まず比企氏を滅ぼし頼家を無理やり修善寺に幽閉してしまいます。
そして一説によると頼家は、入浴中に刺客に襲われ、抵抗空しく凄惨な最期を迎えたと伝えられています。
暗殺実行犯と暗躍する人々
頼家の暗殺実行犯については「刺客」とされているのみで、具体的な名前は伝わっていません。
しかも鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」にも、頼家暗殺に関しては「亡くなった」としか記述されておらず、刺客に暗殺を命じた人物も定かではありません。
しかし、前後の流れや吾妻鏡に載っていないことから推測すると、頼家を亡き者にしようとしたのは、北条氏そして母である北条政子ではないかと推察されます。
実際、比企氏が滅亡し頼家が亡き者になった後に即位したのは頼家の弟である源実朝、その実朝の乳母や側近は北条一族なのです。
そしてまだ12歳で即位した実朝を補佐するために政所別当となった北条時政は、この後に北条氏が代々引き継いでいく鎌倉幕府の執権の座を手に入れることになります。