鎌倉時代の武士の名前には「の」が入ることが多いですが、その理由は何なのでしょうか。
また、鎌倉時代の武士の名前にまつわる話もご紹介しましょう。
なぜ鎌倉時代の武士たちの名前には「の」が入るの?
鎌倉時代の武士たちの名前には、苗字と名前との間に「の」という字が入ることが多いですが、その理由を考えたことはあるでしょうか。
例えば、平清盛も「たいら・の・きよもり」と間に名前が入りますし、源頼朝も「みなもと・の・よりとも」とやはり間に「の」という字が入ることが多いです。
もちろん、例外もあるとされていますが、なぜ苗字と名前の間には必ず「の」という字が入るのでしょうか。
また、そういった「の」が入る名前はいつ頃からなくなっていったのかについて考えてみましょう。
鎌倉時代は姓と苗字は別だった?
今現在の日本では、姓と苗字は同じものとされていますが、鎌倉時代は現代と事情が違っていました。
姓は、天皇が臣下に対して与えるものでありそもそもその人自身の名前ではなく、姓=苗字という図式ではなかったとされています。
つまり、平清盛の「平(たいら)」も、実は天皇から賜ったものであり本来の苗字とは違うものとされていますし、源頼朝の「源(みなもと)」も、自分の苗字ではなかったのです。
平安時代は姓だけ名乗ればよかったのですが、同じ姓を持つ人が増えてきたことによって区別するためにその姓の下に家名や苗字、名前を付けることになったのです。
そのため、姓と自分の家名の間に「の」という字が入るのです。
鎌倉時代以降は姓よりも自分の苗字を使用することが一般的だったのであまり姓は使われなくなりましたが公式の場では姓を名乗ることが多かったようです。
「の」の字がなくなり、姓と苗字の違いがなくなるのは明治時代以降に入ってからとされています。
鎌倉時代の武士たちは自分の名前さえ書けなかった?
自分の名前を書けるようになるのは、今では幼稚園や保育園児、小学校低学年では当たり前とされていますが、鎌倉時代は別でした。
中には、自分の名前を書けない武士もざらにいたとされています。
もちろん、すべての武士が名前が書けなかったわけではないと思われますが、なぜ政権を握るほどの権力があった武士が自分の名前さえ書けなかったのでしょうか。
元々武士は自分たちの土地を守る武装農民や自衛団だったが始まりであり、それを考えると武士も農民でもあったため、まともに教育を受けておく機会も必要もなかったのではないかと考えられます。
その理由から、幕府の役職である問注所の仕事は武士ではなく貴族に任命したとされており、鎌倉時代は、教養の面ではやはり武士と貴族には差があったことが伺えます。
ただ、京都にいる貴族との付き合いや仕事で読み書きの必要性を求められ勉強することもあったようですが、武士が本格的に学業を始めるのは江戸時代に入ってからとされており、鎌倉時代の武士たちは役職によってはわざわざ名前を書く必要もなかったからこそ、名前を書けなかったのかもしれませんね。