東北といえば、平安時代奥州藤原氏が勢力を持ち支配していた土地でもあります。
鎌倉時代、幕府と東北との関係性はどんなものだったのでしょうか。
奥州藤原氏によって栄えた東北地方
東北は平安時代の豪族であった奥州藤原氏が勢力をつけていた土地でもありますが、平泉を拠点として陸奥国一帯を支配しており、平安時代末期に源頼朝によって滅ぼされることになります。
その後、源頼朝は全国に守護と地頭を設置しますが、設置した理由については、名目は逃亡した源義経の逮捕ですが本当の目的は全国を幕府の支配下に置くことでした。
また、守護・地頭だけに限らず今度は東北の平泉に奥州総奉行を設置し、奥州地方の御家人の統率する役職を作るのです。
なぜ、源頼朝は守護・地頭だけではなく奥州総奉行を置くことも必要だと考えたのでしょうか。
東北に奥州総奉行を設置した理由とは
平安時代末期、源頼朝に倒された奥州藤原氏の拠点は平泉にありました。
平泉は東北の中でも唯一都市機能を兼ね備えた場所であり、すでに大都市として形成された場所であったことから、わざわざまた拠点を作るよりも利便性の高いこの平泉で、幕府の権力を高めるために東北の御家人の統率をするのに適した場所だと考えたのです。
加えて、逃亡した源義経が奥州に逃げていたという話もあり、守護や地頭、奥州総奉行の設置も元を辿れば源義経の逮捕が目的だったため、平泉に奥州総奉行を設置することは理にかなっていたのでした。
もう一つの理由として考えられることは、奥州藤原氏の生き残りがまた再興して反撃してくることを恐れての設置です。
完全に奥州藤原氏の再興の芽を摘んでおかない限り、またどこかで隙を狙ってその子供や血縁者が源頼朝の復讐を果たすことも考えられます。
東北に奥州総奉行を設置することは様々な理由があってのことだったと言えるでしょう。
鎌倉時代の東北地方の庶民の生活は?
では、鎌倉時代において東北地方の庶民の生活はどのようなものだったのでしょうか。
源頼朝が幕府を開くとともに設置した守護・地頭は全国に配置されることになるのですがそれは東北も例外ではありません。
ただ、東北は奥州藤原氏がすでに統一が成功していたこともあり、一つの国のようにまとまっていたとされています。
そのため、冷害や台風などの天変地異の時は別ですが、それ以外は東北に住んでいた庶民も安定した生活を送っていたことが考えられます。
しかし、前述したように鎌倉幕府の時代となり守護や地頭を任命された御家人たちがそれぞれの地域に派遣され、東北にも配置されるようになります。
それまで、藤原氏の支配下で安定した生活を送っていた筈の庶民たちは、源頼朝の支配下になって守護と地頭により厳しい取り締まりが始まったことにより、急激に苦しい生活となったことが考えられます。
特に、地頭のやり方は非常に厳しかったことから、それならば以前の支配体制の方がましだったと考えていたかもしれませんね。