ロシアといえば女帝エカテリーナやピョートル大帝が支配した大国というイメージが強い人も多いのではないでしょうか。
しかし、鎌倉時代においてはロシアよりモンゴル帝国の方が強かったとされています。
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日本が鎌倉時代のロシアとモンゴル帝国
源頼朝が鎌倉に幕府を開き、それまでの貴族中心から武士中心の政治を行うようになった頃、海を越えたユーラシア大陸ではモンゴル帝国による進撃が進んでいました。
ご存知の通り、モンゴル帝国はチンギス・ハーンがモンゴルとその周辺一帯を支配するために築いた王朝で、元と名前を改めた後日本にも元寇として襲撃してくるようになります。
元寇は、鎌倉時代の日本を混乱させ破滅へと導いた出来事となりましたが、元寇は日本だけでなくロシアにも攻め入っていたのです。
国内を統一後中国まで支配下に置いたモンゴルは、今度はアフガニスタンなどの中央アジア方面を狙う目的でシルクロードを経てロシアに入ります。
その当時のロシアはロシアという名前ではなくキエフ大公国という名前で有りいくつかの小さな国に分裂してまとまっていなかったのです。
そんな時にモンゴルに攻め入られたロシアは、あっという間にモンゴル支配下に置かれて大公一家は果敢に戦うも惨殺されることとなります。
冬将軍もモンゴルの兵士には勝てず?
ロシアといえば極寒の地というイメージが強い人も多いかと思われますが、その当時のロシアであったキエフも非常に寒く、キエフを完全支配しようとモンゴル帝国が攻めてきたのが12月上旬であるため、かなりの寒さが予想されます。
かのナポレオンは、ロシア遠征の際に寒さに苦戦して撤退することとなったのですが、モンゴルの兵士にとってはロシアの極寒の寒さもあまり効かなかったようです。
それもそのはず、モンゴルもロシアと同じく厳寒地帯であり、そんな地で過ごしている兵士たちにとってはロシアの寒さなど序の口だったのかもしれません。
結果的に、キエフは陥落して支配される日々が続くようになるのですが、この戦いの間にも多くの虐殺があり戦死者の数も50万人を超えていたとされています。
モンゴルの勢いはとどまることを知らず、東方地域に攻め入いるもブルガリアあたりで頑強な抵抗にあい一度は撤退するのですが、やはりモンゴル帝国に蹂躙されその生き残りはポーランドやハンガリーに逃げ込むこととなったのです。
元寇の神風と同じ?
鎌倉時代に起こった元寇においても、モンゴル軍の襲撃に日本の御家人たちも必死に抵抗を続け日本を守ろうとします。
元寇は二度に渡って起こるのですが、その二度とも暴風雨や台風などに見舞われたおかげで、日本がモンゴルに支配される前にモンゴル軍は撤退することになるのです。
極寒の地でも全く堪えなかったモンゴル軍も、日本の台風の脅威にはかなわなかったのかもしれませんね。
実は、ロシアの元寇においても日本と似たようなことが起こったとされるのです。
ポーランド領内まで攻めてきたモンゴル軍に対抗しようと、ヨーロッパ諸国が一体となって抵抗するものの、結局は大量の犠牲者を出しながら敗れてしまいます。
今度はハンガリーのあたりにまで攻め入ろうとしたとき、モンゴルから驚くニュースが届くのです。
何とヨーロッパ諸国を攻め入っていたモンゴル帝国の皇帝が亡くなってしまったという話で、その当時は誰がその次の後継者になるのか決まっていなかったため、兵士たちあたふたしてモンゴルに帰還することになるのです。
鎌倉時代の元寇とは少し違うかもしれませんが、ヨーロッパにおいてもあと一歩で支配されるところで助かったのは日本の元寇の時の現象と少し似ていると思わないでしょうか。