鎌倉時代と日宋貿易について

鎌倉時代は中国である宋との交流が盛んな時代でもありました。

鎌倉時代における日宋貿易の背景について考えてみましょう。

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宋との交流が盛んだった鎌倉時代

鎌倉時代は中国の宋と盛んに交流をしていた時代でもありました。

894年に遣唐使の廃止をすることで表向きの外交は遮断していましたが、貿易に関しては朝廷も黙認していたため、比較的自由に交流していたのです。

ご存知の通り、日本は海に囲まれた島国であり外国との貿易の窓口として利用されたのは北九州にある博多でした。

それ以前の時代までは、現在の福岡県太宰府市にある大宰府が北九州における政治の中心都市とされていましたが、平安時代末期となると日宋貿易を行うために平清盛が赴任していたとされています。

しかし、外交目的ではなく貿易が中心だったことから、九州の中心だった大宰府は徐々に博多へと移っていくことになります。

そして、律令制が崩壊すると大宰府も徐々に衰退し、鎌倉時代の初期になるとその当時有力な御家人であった武藤資頼が、九州の御家人たちの統率として鎮西奉行を始め、北九州守護として源頼朝に抜擢されます。

鎌倉時代以前の貿易はすべて大宰府から行っていたため、大宰府を通すのが鉄則だったのですが、それを平氏の武士であった平忠盛は、うまくごまかして自分で貿易を行うようにしたのです。

日宋貿易を発展させた平忠盛

平忠盛は平清盛の父親ですが、武士であるとともに非常に商才のあった人であり大宰府をうまくやり過ごして日宋貿易の関することはすべて自分の思うままにしようと仕向けたのです。

前述したように、宋と貿易を行っていた日本ですが平忠盛は日宋貿易が自分の利益や金儲けになるとして、日宋貿易で一発当てることを考えます。

そんな平忠盛の背中を見て成長した平清盛は、自分も同じく日宋貿易に注目し大宰府で行っていた貿易を平安京に近い大輸田泊という港でやり取りすることを考えます。

また、平清盛が親子2代で関わってきた日宋貿易は、鎌倉時代に貨幣経済の流通という新しい波を持ってくることになるのです。

鎌倉時代の日宋貿易は?

このように、平清盛が親子で発展させてきた日宋貿易でしたが鎌倉時代にはどのような状態になっていたのでしょうか。

鎌倉幕府は宋との外交はほとんどなかったものの、民間貿易に関しては認めていたことから幕府が直営する日宋貿易の際に利用した御分唐船を派遣するようになります。

南宋代を二度も渡った栄西上人は、宋から日本に禅宗を持ち込むと同時にお茶の文化を持ち込み、それを発展させていきます。

特に、禅宗は権力者に人気があり幕府の中枢にいる北条得宗もそれを保護したため、宋との交流は盛んに行われていたのです。

平氏に焼失された東大寺は、鎌倉時代当時宋の最新の建築様式であった大仏様を採用して建てられたものとされており、禅宗だけでなく朱子学なども宋より伝わって、鎌倉時代は日宋貿易によって多くの利益を与えられ、影響も受けたとされています。

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