鎌倉時代の有名人物といえば?

鎌倉時代には様々な人物が活躍します。

鎌倉時代に活躍した有名人物といえばどんな人なのでしょうか。

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何といっても源頼朝!

鎌倉時代の有名人物として、最も外せないのは源頼朝と言えます。

源氏の御曹司として生まれた源頼朝は父である源義朝と共に平清盛と戦うものの、その戦いに敗れ父は死亡、源頼朝は「いつか必ず平氏を倒す」と固く誓ったまま伊豆に流され、平氏の武士に見張られながらの生活を送ります。

そして、それから20年後朝廷より平清盛の討伐を命じられ征夷大将軍に任命されるのです。

弟の源義経も加わり平氏に不満を持つ武士たちの協力もあり平氏を倒しますが、手柄を立てた源義経が勝手なことをしたことから兄弟で仲たがいが始まり、結果的に源義経を鎌倉から追放し、自分は鎌倉幕府を開くことになるのです。

源氏の御曹司で物腰が優雅であり、またかなりのイケメンだったために女性には非常にモテたようですが、結婚した北条政子を始め家族を大切にし、子供たちを非常に可愛がっていたという意外な一面もあるとされています。

チンギス・ハーンと源義経は同一人物?

多くの人がご存知の通り源義経は若い頃は牛若丸と呼ばれ、平家を倒したヒーローでもある有名人物ですが、一方でモンゴルを築いたチンギス・ハーンと同一人物であるという説もあります。

兄である源頼朝のサポートとして、共に平清盛を倒すことを誓った源義経ですが、結局平清盛を倒したのは兄ではなく弟の源義経でした。

そのため、源義経は天皇から褒美をもらったのですが、その事実が兄である源頼朝の怒りを買うことになり鎌倉を追放されるようになります。

しかし、実は源義経は兄の追っ手から逃れモンゴル帝国に逃げ延びて、そこから帝国を築いてチンギス・ハーンという名を名乗るようになったというのです。

その理由としては、背格好が非常に似ていることや、源義経に「九郎義経」という名前があったようにチンギス・ハーンにも同じ「クロー」という名前があったこと、チンギス・ハーンの前半生が不明なことなど様々な理由から「源義経は名前を変えてチンギス・ハーンとなったのでは?」といわれているのです。

それを考えると、兄である源頼朝の恨みから元寇として日本に攻め入ったのも納得がいくと言えます。

ただ、源義経の首は源頼朝が確認しており、神奈川県の藤沢にきちんとお墓があるとされていますので、源義経がチンギス・ハーンだったというのはデマと言えるでしょう。

そうはいっても、首を確認したところでそれも替え玉だったかもしれませんし、お墓があっても遺骨がない可能性もありますので、もしかしたら、ということもあるかもしれませんね。

鎌倉時代の裏の顔?北条時政って?

北条時政と名前を聞いてもあまりピンとこない人もいるかもしれませんが、鎌倉時代に裏で鎌倉幕府を操っていた裏の有名人物と言える人でもあります。

北条時政は、源頼朝の妻であり尼将軍と呼ばれた北条政子の実の父親であり、鎌倉幕府の第2代将軍源頼家と第3代将軍源実朝の祖父でもある人物です。

なぜ鎌倉時代に有名人物となったのかというのには、源頼朝との出会いから始まります。

源頼朝が平氏に惨敗して伊豆に流されていた時、平氏の見張り役として源頼朝を監視していたのがほかならぬこの北条時政だったとされています。

そもそも北条時政は兵士の出であり、娘である北条政子を平氏の武士と結婚させようとしていたのですが政子が頼朝と恋に落ち子供まで作っていたことを知り、「政子を落とすなんてこいつは見込みがある」として、それまで平氏の敵として監視していた筈の源頼朝に味方をするようになるのです。

そして、自分の孫である源頼家や源実朝が将軍となると初代執権となり政権を握るようになるのですが、最期は自分の子供である北条義時に伊豆に幽閉されることになります。

平氏の子孫でありながら娘婿の源頼朝に加担した北条時政は、平氏の滅亡後に京都の治安維持のために源氏の武士として尽力を尽くすのですが、もともと京都に顔の効く人物であったことからそれが適役であったとされています。

あまり名を知られていない北条時政ですが、実は鎌倉幕府成立の一端を握っていた有名人物なのです。

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