鎌倉時代のモンゴル帝国襲来は鎌倉幕府の滅亡につながった?

鎌倉時代にはモンゴル帝国襲来が二度あったとされていますが、どんな襲来だったのでしょうか。

また、そのモンゴル帝国襲来は、鎌倉幕府の滅亡につながったとされていますがなぜなのか考えてみましょう。

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鎌倉時代のモンゴル帝国襲来、文永の役

モンゴル帝国襲来というのは、いわゆる「元寇」のことです。

北条氏が政権を握り始めそろそろ掌握するという頃、ユーラシア大陸の一部にモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンの孫であるフビライハンは、日本に対し「我が国の属国になるべきだ」という内容の国書を使節を使って伝えてきます。

その当時の執権であった北条時宗は、この申し出を拒否したことからモンゴル帝国襲来となり、その一度目の襲来を「文永の役」と言います。

文永の役は、約3万もの元軍が現在の博多湾に襲来し、日本の騎馬戦に対して鉄砲や火薬を使う戦術を得意としたためにかなりの苦戦を強いられるものの、御家人たちの必死の抵抗と神風によって何とか襲来を免れ、元軍を撤退させることになるのです。

ちなみに、モンゴル帝国はフビライハンの時に国の名前を「元」と改めることから、後世ではこれらの事件が元寇と呼ばれるようになります。

二度目のモンゴル帝国襲来、弘安の役

日本は、二度目のモンゴル帝国襲来に備えて異国警護役の強化はもちろん、博多湾に巨大な防塁と石塁を作ります。

そして、元自身もさらに兵士を増やして今度こそ日本を自分の国の属国にするべく、今度は総勢14万という兵士を率いて日本に攻め入ってくるのです。

この戦いはさらに苦戦を強いられ、二か月間に及ぶ戦闘が続きましたが、元軍が台風に直撃され弱ったことと、御家人たちの防壁造りや警護などの事前準備が非常に役立ったこと、また元軍が海戦に不慣れなことなど様々なことが重なって元軍は撤退し、またしても日本は元に支配されることはなくなったのです。

なぜモンゴル帝国襲来が鎌倉幕府の滅亡につながったの?

このように、二度のモンゴル帝国襲来も御家人たちの必死の抵抗と防衛、そして神風によって何とか襲来を免れたのですが、実はこのモンゴル襲来事件は結果的に鎌倉幕府の滅亡のきっかけへとつながっていきます。

では、なぜモンゴル帝国襲来が鎌倉幕府の滅亡につながることとなったのでしょうか。

その理由としては、御家人たちがモンゴル帝国襲来によって困窮し、幕府への不満が高まったことが最大の原因と言えます。

御家人たちは、元の二度目の襲来に備えて防壁や石塁作りに私財を投資することによって財産が尽きてしまいます。

それに加えて、しっかりとモンゴル帝国襲来を阻止したのにそれに対する幕府の恩賞が十分に得られなかったために生活が苦しくなってしまうのです。

幕府としても、自分たちの財産を使ってしまい困窮しており、「ない袖は振れぬ」というわけで褒美をあげたくてもお金自体もなくかといって所領を与えることもできずに褒賞自体がうやむやになってしまったのです。

しかし、御家人の生活の困窮は結果的に幕府の運営を悪くするため、苦肉の策によって永仁の徳政令を発布し、御家人たちの借金をチャラにする法律を作ったのですが、これがうまく振るわずに逆に御家人たちの生活を苦しめることになってしまいます。

「せっかくに幕府のために戦ったのに、この仕打ちはあんまりでござる」と思う武士が増えたことによって、幕府討幕の流れへと進んでいいきます。

モンゴル帝国襲来は阻止できたものの、最終的にこの事件は鎌倉幕府の滅亡へと落ち着いてしまうことになったのです。

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