京都に都?鎌倉時代は鎌倉じゃないの?

鎌倉時代は武士が台頭し武士による武家政権となった時代です。

しかし、都自体は京都にあり鎌倉にはなかったとされていますがその理由はどんなことが考えられるのでしょうか。

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鎌倉時代なのになぜ京都が都なの?

鎌倉時代はそれ以前の貴族が中心となった政権から、武士が中心となって行う武家政権へと移り変わりました。

守護・地頭を全国に設置し、征夷大将軍に任命された源頼朝は源氏のゆかりの地でもある鎌倉に幕府を開き、政治を行うようになります。

鎌倉に幕府の中心が移ったものの、変わらず都は鎌倉時代以前と変わらず京都にあったとされていますが、なぜなのでしょうか。

政権の中心は幕府のある鎌倉にあるので、都を京都ではなく鎌倉にしてもよさそうなものですが、なぜ都はそのまま京都にあったのか考えてみましょう。

幕府と都は別物?

鎌倉時代に入り、幕府は鎌倉に開いたのになぜ都は京都にあったままだったのかその理由は何なのでしょうか。

まず考えられる理由としては、あくまで幕府は源頼朝が政治を行う際の私的家政機関であり公的な機関ではなかったとされています。

また、鎌倉に幕府を開いたからといって「なぜ我々が鎌倉に移動しなければならないんだ」という天皇や貴族の意向もあったでしょうし、勢力は衰えていたものの朝廷自身も完全に力を失っていたわけではないので、鎌倉と京都でそれぞれ全国を支配したい気持ちがあったのも都が京都にあった理由と言えるでしょう。

加えて、正式に遷都したわけではなく政治を行う拠点を鎌倉にしただけなので、現在東京が首都であるのと同じように京都が都であることもおかしくないと言えます。

つまり、鎌倉で政治を行うからといって都を京都から鎌倉にうつす必要がなかったのが、鎌倉時代に都が京都にあった大きな理由の一つと言えるのではないでしょうか。

平清盛の二の舞をしたくなかった源頼朝の真意

平安末期、平氏側の武士として勝利した平清盛は、朝廷に入り込んで朝廷を通じて支配し政治を行おうとした結果、源義経に滅ぼされてしまいます。

それを傍で見ていた源頼朝は、自分が政権を握ることになった時平清盛の二の舞はしたくないという気持ちがあったようなのです。

加えて、鎌倉から幕府を監視しながら自分のやりたいように政治をしたかったのも都と離れたところに幕府を開いた理由とされています。

そして、元々源氏の地としてゆかりのあった土地であることと、地形的に戦術や防衛に便利だったこと、自分に味方する人物がたくさんいたことなど様々な理由から源頼朝は鎌倉に幕府を開いたとされているようです。

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