源頼家の権力を奪うため?「13人の合議制」を簡単に解説

鎌倉幕府の始祖である源頼朝が急逝して、嫡男である頼家が2代目将軍に就任しました。

今回は頼家が将軍になった事によって起きた権力闘争、そして北条氏によって作られた「13人の合議制」について簡単にご説明します。

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2代目将軍頼家就任、それを危惧する北条氏

頼朝に代わって頼家が鎌倉幕府将軍になったのですが、頼家は年若だったこともあって、頼家の独裁的な態度に御家人たちは不満や反感を持ち始めました。

そこで頼家の母・北条政子そしてその周囲の北条氏は、将軍(頼家)に大きな権力を持たせておくのは良くないと判断します。

こうして生まれたのが、北条氏を中心とした「13人の合議制」という仕組みです。

これは、有力な御家人たちが政策を話し合って決定するというもので、言い換えれば「将軍には政策を決定することができない」ということになります。

この13人とは、和田義盛・大江広元・三善康信・北条時政・北条義時・梶原景時・比企能員・安達盛長・二階堂行政・足立遠元・中原親能・三浦義澄・八田知家、となっています。

13人の合議制

この仕組みができてからしばらくの間、鎌倉幕府はこの13人の御家人を中心に政治が行われることになりました。

ちなみに、毎回13人が集まって会議をしていたのではなく、数人が話し合って意見をまとめて、政策がおおむね決まった時点で、頼家に最終判断を仰ぐ形であったとされています。

この合議制を導入したのは、頼家の独裁を抑制するためというのが通説となっていますが、実際には頼家の権力を補完する機能を果たしていたともされています。

封建的で上下関係の厳しい武家社会においての合議制というのは、うまく機能すれば先進的・画期的なシステムでした。

実際にこの「合議制」は後の評定衆のシステムに継承されています。

しかし、この13人の合議制ができた後、北条氏は他の有力御家人たちを蹴落として、トップに上り詰めるという権力争いへと発展していきます。

13人の合議制に反発した源頼家

一説によるとこの13人の合議制によって、源頼家は政治を思うように動かせない苛立ちから、今で言う心身症または自律神経失調症に罹ってしまったのではないかと思われます。

この後重篤な病におかされる頼家ですが、この精神的重圧も一因だったのではないかとされるのです。

頼家は合議制に反発し、「自分は信頼する数名以外とは会ったり話したりしない、そしてその選ばれた者は何をしても無罪だ」と主張し、御家人たちを牽制しました。

こうして頼家と御家人たちとの間に溝が生まれてきていた頃、頼家派であり側近の梶原景時という人物が、反頼家派勢力によって消されてしまいます。

そしてその後、頼家も幽閉されて謎の死を遂げることになり、北条氏の推す3代目将軍・源実朝が若くして即位します。

13人の合議制というのは、リベラルに運営することができれば民主的そして合理的なシステムでしたが、この時代では政権争いの道具として使われ、その結果源頼家そして実朝の悲劇につながってしまったと思われます。

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