京都は天皇を始め貴族が中心となって政治を行ってきた歴史ある都市でもあります。
鎌倉時代に入って朝廷の勢力が衰えても、京都の歴史は色褪せることはなかったとされています。
鎌倉時代における京都の歴史
京都は古くから中心都市として栄えてきましたが鎌倉時代においてはどのような歴史を辿って行ったのでしょうか。
鎌倉時代における京都の歴史としては、既に平安末期ごろに武士の勢力が本格化したことで、朝廷と源氏、平氏の三つ巴の戦いとなって町中が戦場になり、京都は徐々に疲弊してところにまでさかのぼります。
そして、源頼朝が源氏として本格的に鎌倉幕府を開きそれまでの貴族中心の政治から武家政権へと移り変わることになるのですが、だからといって京都にある朝廷の力は完全になくなったわけではなかったとされています。
そのため、京都にいる朝廷と、幕府のある鎌倉との二重支配が続いていました。
歴史ある京都を中心地としていた朝廷は、何とかしてその勢力を朝廷に戻して再び政権の座を取り戻そうと考えたのが後鳥羽上皇です。
源家が3代で滅び、その後の政権を北条氏が握ろうとしてた矢先、後鳥羽上皇による承久の乱がおこったのです。
承久の乱後、朝廷の監視に京都守護から六波羅探題へ
承久の乱は後鳥羽上皇が再び朝廷に権力を復活させようと挙兵し、その当時の執権であった第2代執権北条義時を抑えようと起こした反乱でした。
歴史ある京都の地で再び政権を取り戻そうとした後鳥羽上皇の反乱でしたが、北条政子が幕府の御家人たちを説得し見事後鳥羽上皇の挙兵を1か月かからず鎮圧させます。
承久の乱がおこる前以前から、京都守護を朝廷監視の役割を置いていたのですが、さらにその監視を強めるために京都守護がさらに進化した六波羅探題を京都に設置して調停を見張ると共に、洛中の警護に当たる役職を作るようになるのです。
それでも京都は中心地!歴史あることには変わりない
後鳥羽上皇の承久の乱を経て、幕府はさらに朝廷の監視を強めることになりますが、朝廷の勢力は弱まったもののすべて失われたわけではありませんでした。
朝廷の力が弱まったことで、それまで官営の下行っていた工房なども民営へと移り変わるようになり、商業経済の発展へ移行していくなどの影響があったことは確かです。
そうはいっても飛鳥・奈良時代、平安時代から経済の中心地として発展を遂げてきた京都が歴史ある都市であることは変わりなく、鎌倉時代以前のように商業や金融の中心地であったことは同じだったのです。
武士が中心の武家政権となり、幕府が鎌倉に拠点を置いていたとしても、京都の重要性は鎌倉時代においてもまだまだ失われていませんでした。
それは、京都がそれまでの時代の乗り越えてきた歴史ある都市だったから、というのも大きな理由だったのではないでしょうか。