鎌倉時代に司法・行政・立法を司った評定衆の仕事とは

鎌倉時代には様々な役職があり、新たに設置されたものも少なくありません。

その中でも、司法・行政・立法を司った評定衆はどんな仕事だったのでしょうか。

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評定衆ってどんな仕事なの?

評定衆という名前をあまり耳にしたことがないと、どんな仕事をしているのが疑問に思われる人も多いのではないでしょうか。

立法、司法、行政を司る仕事とされていますが実際にはどんな仕事をしていたのか考えてみましょう。

評定衆は、鎌倉時代とその後の時代である室町時代において、政務や裁判の評議機関のことを指します。

もともとは源頼家の時代に始まった「13人の合議制」をもとに作られたもので、北条一門の他に有力な御家人が選ばれ、名目的であった将軍に代わって幕府の政務や訴訟を行う仕事をしていました。

また、その下に引付衆という訴訟専門機関を設けて、評定衆と引付衆が一体となって訴訟の審議や裁判を行う機関へと発展していきます。

評定衆は誰が作った?なぜ作る必要があったの?

評定衆は誰が作ったのかというと、第3代執権である北条泰時の時に作られたとされています。

北条泰時は北条義時の子供であり、武士の初めての法律である御成敗式目を制定したことでも有名です。

北条泰時は評定衆とともに連署という役職も作ったとされていますが、なぜ作る必要があったのでしょうか。

第2代執権であった北条義時が急死すると、その当時六波羅探題に就いていた北条泰時が鎌倉に戻され第3代執権となるのですが、鎌倉幕府の創設以来幕府を支えてくれた大江広元に続き伯母である北条政子も相次いで亡くなったことから、後ろ盾がいなくなってしまいます。

幕府のトップに立って一人で何もかも決めていくことを不安に思った北条泰時は、叔父である北条時房を呼び戻して両執権となり、北条時房は副執権と言う立場でしたが、後に執権と並んで仕事をすることから連署という名前に改名します。

その連署の下に評定衆、引付衆を設置して新たな組織を作り上げ、幕府にさらなる新しい風を取り入れる結果となったのです。

なぜ、連署や評定衆が必要だったのかというと、それだけ大きな後ろ盾であった北条政子や大江広元、そして父である北条義時の死は北条泰時にとって大きな痛手だったことが連署や評定衆を設置した大きな理由ではないかと思われます。

時宗の出現で徐々に衰退へ

北条泰時によって司法・立法・行政の最高機関として組まれた評定衆でしたが、鎌倉時代の後期になるとその状態が変化していきます。

鎌倉時代後期には、北条一族の家督となる得宗が幕府の実権を握ることになったため、北条泰時がまとめた評定衆は徐々に形骸化していくようになります。

鎌倉時代が終わり、室町時代になっても評定衆は設置されていましたがほぼ名ばかりの役職となり、戦後の頃になりようやく廃止されるようになるのです。

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