鎌倉時代の北条泰時ってどんなことをした人なの?

鎌倉時代には活躍した人物が多かったとされていますが北条泰時もその一人とされています。

では、彼は鎌倉時代においてどんなことをしたのでしょうか。

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北条泰時はどんな人?

北条泰時は源頼朝の妻、北条政子の甥にあたり鎌倉幕府の第2代執権の北条義時の子供として生を受けます。

生まれた当時は源平合戦とも言われた治承・寿永の乱の真っただ中である戦乱のさなかに生まれますが、落ち着きのある武士に成長していきます。

北条泰時が成長している頃というのは、その当時の将軍であった源頼家や源実朝の暗殺事件など不審な事件が多く、それが執権として権力を持っていた北条氏の不満へとつながっていた時期でもありました。

それを払拭するかの如く、父である北条義時とともに活躍したのが後鳥羽上皇が倒幕のために起こした承久の乱でしたが、父とともに圧倒的な強さでそれを抑え、朝廷の勢力が衰退する一方でますます幕府の強さを全国に知らしめることとなり、同時に北条氏に対する不満も払拭されたのです。

承久の乱後は、北条泰時は京都の治安維持のために初代六波羅探題を勤めることとなります。

北条泰時が鎌倉時代に制定した御成敗式目とは

父親である北条義時が亡くなると、今度は第3代執権として政治を握り環境を整備しより良い政権作りに向けて突進していきます。

そして、武士のための法律である御成敗式目を制定するのです。

北条泰時が御成敗式目を制定する前にも一応法律はあったのですが、それは貴族や公家などが中心であり彼らにとってしか有利でない法律しかなかったとされています。

そのため、武士の中にはそんな法律しかない状態に不満を持つものも少なくなかったのです。

そこで北条泰時は武士が政治を行い生きていく上でより生活しやすくするための武士のための法律として、御成敗式目を制定します。

御成敗式目は51か条で出来ており、どんな人が読んでもわかりやすく書いてあり、いわば武士の教科書のようなものだったとされ全国に配布されます。

その内容としては、夫婦や相続などの家族や一族の問題についての基準や暴力や窃盗などの犯罪における裁判の基準、土地の決め事などが盛り込まれていました。

人徳の厚い人だった?北条泰時の最期

北条泰時は晩年赤痢にかかり、1242年に60歳の年齢でこの世を去ることになります。

鎌倉幕府のために真面目に尽くしてきた執権の最期としては余りにも苦しい闘病生活だったようです。

ただ、この際には北条泰時の人徳をうかがわせるエピソードがあったとされているのです。

北条泰時は死の前年に出家するのですが、この際にはなんと50人もの家来が同じく出家したとされており、普段から人望の厚い人柄だったのではないかと思われます。

ただ、北条泰時の死に不可解なことが一点あるとすれば、北条泰時が亡くなった6月には鎌倉政権の主要人物が数多くなくなっていることです。

鎌倉時代を担った主要人物たちが同時期に亡くなった理由の一つとして考えられるのは、承久の乱の際に後鳥羽上皇を島流しにしたことが関係しているかもしれないと考えられており、その後鳥羽上皇の怨念なのではないかと言われているようです。

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