鎌倉時代の幕府と朝廷の関係とは?

鎌倉時代は幕府と朝廷がそれぞれ存在していました。

それぞれの役割や関係について解説していきます。

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そもそも朝廷って何?

朝廷というのは天皇を中心として貴族や皇族が政権を握り政治を行う仕組みのことですが、鎌倉時代より以前の奈良時代や平安時代から古来より続いていた仕組みでもあります。

言ってみれば、天皇を中心とした政治組織であり朝廷の基本としては律令制を採用した「公地公民」で、土地はその土地を開拓した農民や武士のものではなく、さらには人民も公のもの、つまり朝廷のものであるとしたのです。

ただ、古来より続いていた公地公民も藤原道真などの進出により徐々に衰退していったとされています。

古来より続いていた政治体制である朝廷は、「武士や農民はそもそも自分たちのものなのだから尽くして当たり前」という考え方だったとされています。

どんなに頑張ってもその努力が報われず、当たり前と思われていたら献身的に尽くそうとする気持ちが起こらなくなっても仕方ないと言えます。

一方、武士を中心とした幕府の政治というのは十分に働いてくれ多分その恩賞を与えますよ、という封建制度であったため、武士たちも自分の土地や財産を築くためだけでなくその努力を認めてくれる幕府に対して尽くそうという気持ちが大きかったからこそ、どんどん幕府自体も絵勢力を増していったのではないでしょうか。

幕府とはどんな役割をしていたの?

今度は幕府について考えてみましょう。

幕府とは、朝廷が天皇を中心として皇族や貴族などによる政治組織だったのに対し、幕府は武士たちによる政治機関とされており平清盛を討伐した源頼朝が1192年に開設しました。

そもそも武士たちは、古来より続く制度であったとしても貴族や豪族だけ有利な政治政策に不満を持っており、絶対的に権力があり自分たちを引っ張ってその力を活かし認めてくれるリーダーが欲しかったことから、源頼朝に対してもより強力的に尽くすようになったとされています。

源頼朝が率いる幕府は、朝廷の許可を取り源義経の逮捕を目的として全国に守護と地頭を設置します。

しかし、それはあくまで表向きの理由であり、本来の目的は自分に協力する有力な武士たちを全国に配置することでさらに幕府の力を強めていくことでした。

幕府と朝廷の関係性は

では、幕府と朝廷の関係性はどのようなものだったのでしょうか。

衰えていたとはいえ、朝廷側にもまだ勢力があったとされているのですが、徐々に武士が力をつけてきている頃、平安末期に武士として初めて大政大臣の権力を手に入れた平清盛がその権威をほしいままにしているのを討伐したのが、朝廷に征夷大将軍を任命された源頼朝でした。

つまり、平清盛など武士が力をつけてきたことにより、朝廷の力だけではその勢力を抑えきれないため、そこで武士にその勢力を抑えるように協力をお願いする形となったわけです。

平清盛を討伐後、源頼朝は初めて武士による政治機関である「幕府」を開府して全国に守護と地頭を設置することを後白河天皇に願い出ます。

これ以上、幕府の勢力を強めて欲しくないものの平清盛討伐のお願いをした手前朝廷側も嫌とは言えずに守護と地頭を設置することを許可してしまうのですが、これが結果的に朝廷の衰退のきっかけとなってしまうのでした。

その後、朝廷側の勢力を取り戻そうと鎌倉時代に後鳥羽天皇が再び天皇中心の政治を置こうなうことを目的に「承久の乱」をおこしますが失敗します。

鎌倉幕府が倒れて鎌倉時代が終わろうとする頃、今度は後醍醐天皇が「建武の新政」を行い再び朝廷中心の政治にしようと試みますがこれもあえなく失敗し、政権の中心はその後、明治維新に至るまでずっと幕府が握ることとなったのです。

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