鎌倉時代に政治の中心となったのは幕府であり武士たちだったとされています。
また、政治の仕組みはどのようなものだったのでしょうか。
鎌倉時代の政治の中心は二つあった?
鎌倉時代に幕府を開いた源頼朝は、鎌倉に味方が多いことや地形が敵から襲撃を受けにくい、または源氏のゆかりの地であったことも考えて、幕府を鎌倉に持ってきました。
当時の鎌倉は今のような観光地ではなく辺鄙な場所だったのですが、朝廷の二の舞のような政治を行うことを恐れていたこともあり、様々な理由から鎌倉に幕府を設置することにしたのです。
そのため、鎌倉時代の政治の中心は幕府があった鎌倉が政治の中心だったのですが、実は政治の中心は鎌倉だけではなかったのです。
確かに、幕府がある土地が政治の中心となるのは当たり前なのですが、幕府を鎌倉に開いたものの天皇や貴族たちは京都から動かなかったこともあり、変わらず都は京都のままでした。
加えて、朝廷の力は衰えてきたにしてもまだまだ失っていなかったため、鎌倉の幕府と京都の朝廷と、鎌倉時代に政治の中心は二つあったことにあります。
鎌倉時代の政治の仕組みとは?
とはいえ、鎌倉時代は朝廷自体が表立って政治を行うことは少なかったため、直接的に政治の中心となったのは武士を中心とする幕府とされていました。
では、鎌倉幕府における政治の仕組みとしてはどのようなものだったのでしょうか。
幕府の仕組みとしては、まずトップに将軍がいて、その下にそれぞれ中央である鎌倉、京都、地方の三つに分かれる仕組みとなっていました。
まず、中央である鎌倉には政治や財政を担当する「政所」、裁判など司法を担当する問注所、御家人の統率や軍事を担当する侍所、行政・司法・立法のすべてを担っていた評定衆などがありました。
その他の仕組みとして京都には六波羅探題を置き、地方は守護、地頭を全国に配置することで幕府の力を強めて幕府の勢力を強めるようにしたのです。
源家が滅んだあとは執権政治へ
幕府を開いた源頼朝が亡くなった後、その子供である源頼家が将軍の座に就くことになりますが、政治の中心は執権である北条氏に移ることになります。
北条氏はもともと平家の流れをくむ一族でしたが、北条政子が源頼朝の嫁となりその子供が将軍となったことで北条政子の父親であり第2代将軍の祖父である北条時政が初代執権となり、政治の中心に起つことになります。
北条時政が初代執権として就任後は、代々北条氏が世襲制で執権を担うようになり、鎌倉時代が終わるまでその流れは続いたとされています。
源氏の御曹司でもあった源頼朝には、政治を行う才覚があっただけでなくカリスマ性もあったことから、源頼朝でなければ従いたくないという御家人も多かったようです。
そのため、安定する時期もあったものの北条氏に政権が移ってからは武士たちの不満も徐々に大きくなり、結果的に鎌倉幕府の滅亡へとつながっていくようになったとされています。