鎌倉時代における別当ってどんな役職?

鎌倉時代には守護や地頭を始めとする新しい役職の他に、それ以前の時代から続いている役職も数多くありました。

その中でも、別当という役職はどんな役職だったのでしょうか。

スポンサーリンク
kamakura-jidaiレクタングル大

そもそも別当とは何?

鎌倉時代に限らず今の時代にも言えることですが、鎌倉時代も仕事内容によって役職の名前がそれぞれあり、複雑化していました。

別当という言葉を耳にしたことのある人もいると思われますが、そもそもどんな意味を指す言葉なのかご存知でしょうか。

別当のそもそもの意味は元々は別の本官のあるものが別の役を担当することの意味とされていますが、鎌倉時代においては様々な役職の専任の長官のことを指す言葉とされていました。

例えば、検非違使庁や蔵人所の別当などはその代表的なものであり、ただ「別当」という場合には検非違使別当を指すことが多かったようです。

また、その時代によって別当の使い方も異なっており、平安時代においては親王家、摂関家の政所の長官を指し、鎌倉時代においては政所や侍所の長官を指したとされています。

つまり、政治を行う中枢機関における、そのまた長官のことを別当と言っていたということになります。

ちなみに検非違使とは、平安初期に設置された令外官の一つで治安維持など警察の業務を担当する役職です。

別当から執権へと名前を変えた北条時政

鎌倉時代は政所や侍所の長官のことを別当と呼んでいましたが、それを後に執権を呼ばせるようにしたのは源頼朝の妻、のちに尼将軍と呼ばれる北条政子の父、北条時政だったとされています。

北条時政は源頼朝の妻である北条政子の実の父親であるということは、第2代将軍である源頼家、第3代将軍源実朝の祖父にあたります。

彼らのおかげで結果的に鎌倉幕府において権力を持つことが出来たのですが、自分の立場が危うくなる前に、あるいは自分の権力を失わないようにと、北条時政は信じられないことを行っていくようになるのです。

北条時政の信じられない裏切り

では、実際に北条時政はどんなことをしたのでしょうか。

北条時政が初代執権となった執権という存在は、そもそも鎌倉時代初期の頃はなかったとされています。

執権という名前も正式名ではなく、その当時権力を握っていた北条時政は政所別当と呼ばれていましたが自らを執権と名乗り初代執権として鎌倉幕府の政権を握ることとなるのです。

そして、その息子であった北条義時が政所別当と侍所別当を兼任したことにより、北条一族の執権の地位は確立されたと言われています。

ただ、この北条時政は血のつながっているはずの孫の源頼家と仲たがいとすると、将軍職から退けて同じく孫であるまだ幼い源実朝を将軍に立てて自分は執権として思うがままにするなどやりたい放題だったようです。

また、政治の手腕はあまりある方ではなく、奥方であった牧の方の影響を受けたのか平清盛に匹敵するくらいの見苦しい政治を行おうとしており、加えて自分でたてたはずの源実朝も将軍職から退け娘婿であった平賀朝雅を将軍にしようとしたために、北条政子と北条義時によって伊豆に幽閉され、最終的には出家し78歳の生涯を閉じることとなったのです。

自分が権力をほしいままにするためには自分の血のつながった孫さえ利用しようとするなんて、今の世の中では信じられないことですね。

スポンサーリンク
kamakura-jidaiレクタングル大

kamakura-jidaiレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする