鎌倉時代の北条氏の系図は?誰が政治を行っていたの?

源家が3代で滅びると、今度はその血縁関係である北条氏が政治を行うようになります。

鎌倉時代において、北条氏の系図はどのようになっているのか考えてみましょう。

スポンサーリンク
kamakura-jidaiレクタングル大

そもそもなぜ北条氏が政治を行ったの?

鎌倉幕府を開いた源家は、3代という短いスタンスで滅亡してしまいますが、なぜその後の政治を北条氏が行ったのか気になるところです。

それには、源頼朝の妻となった北条政子が関係しています。

北条政子の実の父親は北条時政という人ですが、実はこの人は源頼朝が伊豆に流された時の兵士の監視役だったのです。

最初は敵だったものの娘である北条政子を落としたことを見込んで、本来は敵であるはずの源氏の御曹司である源頼朝の味方となり尽力を尽くすようになります。

源頼朝が鎌倉幕府を開いたころも、京都に顔の効く北条時政は京都守護として京都に赴き、味方を増やすなど幕府をサポートします。

そして、源頼朝が亡くなるとその息子である源頼家、源実朝を将軍に立てて今度は自分が政治を行うようになったのです。

北条氏の系図は?

では、今度は北条氏の系図について考えてみましょう。

まず、北条時政をトップにその息子と娘として第2代執権となった北条義時、北条時房、北条政子がいます。

北条政子の下には、源頼朝の子供である源頼家、源実朝がいます。

そして、北条義時の下には第3代執権となる北条泰時がいて、その下の北条時氏を経て第4代執権の北条経時、第5代執権の北条時頼、北条泰時と兄弟であった北条重時の子供に第6代執権の北条長時がいます。

北条時頼の子供に第8代執権となる北条時宗がいて、その子供に第9代執権となる北条貞時がいて、その子供に第14代執権であった北条高時がいます。

北条氏の系図はこれだけではありませんが、一般的に幕府の初代執権となった北条時政をトップにその下の第2代執権である北条義時から数えて嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時までを鎌倉幕府における北条氏送料の家系である得宗というようです。

どの執権の時にどの北条氏だったのか

北条氏の系図は理解できたかもしれませんが、どの執権の時にどんなことが起こったのかはよくわからない人もいるのではないでしょうか。

そこで、鎌倉時代に起こった出来事と執権を照らし合わせて考えてみましょう。

北条時政は初代執権となり、自ら自分で政治を行うようになりますが、実は自分が執権に収まるために実の孫である北条頼家を殺害したとされています。

北条時政が引退すると、次はその子供であった北条義時が第2代執権となりますが、その頃後鳥羽上皇の反乱による承久の乱がおこります。

第3代執権である北条泰時は幕府の新しい役職として連署と評定衆を設置し、武士の初めての法律である御成敗式目を制定します。

その後は北条氏が政治を行うようになり安定した時期が続きますが、第8代執権となる北条時宗が執権の時に、元寇が起こり、二度に渡って日本に襲来してきます。

御家人の見事な働きによって元軍は撤退するのですが、幕府も御家人も私財をなげうってお金が無くなってしまい、御家人たちも十分な報酬が得られなかったことから徐々に幕府への不満が高まるようになります。

第9代執権の北条貞時の時、元寇によって御家人たちの生活が困窮したことで借金がかさんだことから、その借金をチャラにする永仁の徳政令を発布しますがあまり効果が出なかったとされ、倒幕の蜂起へとつながり始めるのです。

スポンサーリンク
kamakura-jidaiレクタングル大

kamakura-jidaiレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする