鎌倉時代は宋との貿易が盛んになった時代でもあります。
貿易には必ず港が必要となりますがそれを自分の都合で開港したのはかの平清盛だというのをご存知でしょうか。
日宋貿易の立役者、平忠盛
鎌倉時代以前の平安時代に活躍したとされる平忠盛は、あの平清盛の父親なのですがどんな活躍をしたのか気になるところです。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、日宋貿易が盛んになってきたのですがその日宋貿易を行うのは九州の太宰府に限られていました。
あくまで大宰府を通して貿易を行わなければならなかったのですが、武士でありながらも非常に商才のあった平忠盛は大宰府を言葉巧みに操り、宋との貿易の権限を手中に収めようとするのです。
平忠盛は、日宋貿易で一発当てることで多大な利益が得られることをわかっていたからこそ、少し無茶をしてでも宋との貿易の権限を手に入れたかったのではないかと思われます。
そんな父の背中を見て育った平清盛も、同じように日宋貿易に関してあれこれ作戦を考え始めるのです。
自分で港を開港?平清盛の大胆な秘策とは
前述した通り、古来より朝廷は九州の大宰府に役所を置いて日宋貿易を管理していました。
その当時力をつけていた平清盛も、大宰府の副官に任命されて九州に赴任することとなります。
ただ、現代にも同じことが言えますが政治の中心地から遠く離れた場所に赴任するということは、政治的な失脚の意味もあってあまり良い事だとはされていませんでした。
悪い言い方をすれば、政治の中心地である京都から九州の遠い地へ赴任を命ぜられることは、左遷や島流しの意味にも近かったのです。
朝廷での政治的権力もつけたいけれど、宋との貿易もしたいと考えていた平清盛は、大胆な秘策を考えます。
九州よりももう少し朝廷に近い、現在の神戸である福原に港を作り、そこで日宋貿易をすれば貿易ができるだけでなく朝廷との行き来もしやすいと考えたのです。
福原遷都まで?
平清盛は父の背中を見て貿易に関して学んだこともあり、日宋貿易における経済的なメリットを熟知していました。
しかし、九州の大宰府を通してでは自由に貿易ができないとして何とか自分のお膝元である摂津国福原で貿易ができないかと考えていたのです。
ただ、貿易をするのには港が必要ですが手ごろで自分が動かしやすい港を考えたところ、注目したのが行基という僧が作ったとされる大輪田泊という古い港でした。
そして、平清盛は大輪田泊を拠点の港として日宋貿易を始めますが、九州の大宰府で行うよりも朝廷が近いことら輸入品をすぐに届けることが出来るなどのメリットも多く、また平清盛自身もこの港での貿易において財を蓄えることとなり、日宋貿易において平一族を無視することはできなくなっていったのです。
その後の鎌倉時代においても宋との貿易を盛んに行うことが出来たのも、ほかならぬ平清盛の功績があってのことだと言えるのではないでしょうか。