源頼朝が開いた鎌倉幕府は、頼朝・頼家・実朝の3代で源氏直系の将軍が絶えてしまいました。
その後、4代目将軍は藤原頼経、そして5代目・藤原頼嗣、6代目・宗尊親王と続くのですが、この将軍就任の経緯には複雑な事情があります。
今回は、源氏将軍から摂家将軍そして皇族将軍に移っていく経緯についてご説明していきます。
摂家将軍だった藤原頼経、そしてその嫡子・藤原頼嗣
藤原頼経は、摂家から迎えられた摂家将軍で、前の3代の源氏将軍とは血縁関係にあります。
摂家とは、藤原氏嫡流で、公家の家格の頂点に立っている5家(九条家・近衛家・一条家・二条家・鷹司家)のことをいい、藤原頼経は九条家から迎えられたことから九条頼経ともいわれています。
傀儡将軍として北条氏に担ぎ出された形で就任した藤原頼経でしたが、成長するにしたがって将軍職というものを知るようになり、幕府に介入するようになりました。
それを快く思わない当時の執権・北条経時(4代執権・北条政子の弟の曾孫)との間に確執が生じ、藤原頼経は北条経時の策略によって将軍職を嫡男の頼嗣に譲らされます。
この時藤原頼経は27歳、そして第5代将軍に就いたのは頼経の嫡男でまだ6歳の藤原頼嗣でした。
摂家将軍から皇族将軍へ
父・藤原頼経に代わって将軍になった藤原頼嗣も、14歳の時に謀反事件に関わったとされて将軍職を廃されてしまいます。
この間の幕府は、まさに「北条幕府」と呼んでも過言ではないくらい、将軍よりも執権・北条氏が実権を握っていたのです。
将軍職を追われて京都に送還された藤原頼嗣に代わって第6代将軍になったのは、第88代後嵯峨天皇の皇子であった宗尊親王、当時11歳でした。
第3代将軍源実朝亡きあと、幕府は皇族から将軍を擁立することを望んでいたのですが、後鳥羽上皇の反対にあって断念したという経緯がありました。
ここで念願の皇族将軍が誕生したのですが、そこには摂関家として力を持っていた九条家が将軍家まで掌握してしまうことに対して、天皇家と北条家が危機感を抱いたことで利害が一致したものとみられています。
宗尊親王、鎌倉幕府第5代将軍に
宗尊親王も、北条氏の思惑の下、11歳という若さで後深草天皇より征夷大将軍の宣下を受けました。
ここで「皇族将軍」が誕生したのですが、幕府が北条氏による専制体制が敷かれていたために将軍には権限はありません。
そのためか、宗尊親王は和歌の創作に没頭するようになり、歌会を頻繁に行ったと伝えられています。
宗尊親王が25歳になった文永3年、正室である近衛宰子と僧・良基の密通事件によって謀反の容疑をかけられ、執権・北条政村らによる話し合いで将軍を解任され、京への送還が決定されました。
この際に、北条氏の分家筋の名越流北条氏が将軍更迭に反対しましたが、決定を覆すことはできなかったのです。
宗尊親王は京都へ帰った後、父である後嵯峨法皇の崩御に伴い仏門に入り、宗尊親王自身も33歳という若さで他界しました。
そして宗尊親王が廃されて京都に送られたことに伴って、嫡子である惟康親王が次の皇族将軍に就任するのです。