和歌を通して見る鎌倉幕府第3代将軍・源実朝の性格とは?

鎌倉幕府第3代将軍である源実朝は、武士でありまた優秀な歌人としても知られています。

今回は、実朝が詠んだ和歌を通じて、実朝の性格を推察していきます。

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兄・頼家と実頼、比企氏と北条氏の確執

源実朝は、建久3年(1192年)8月9日に、鎌倉幕府の始祖である源頼朝と北条政子の間に生まれました。

建久10年(1199年)、頼朝が落馬によって逝去し、実朝の兄である頼家が将軍職に就くのですが、母・政子は初めから頼家ではなく実朝に将軍職を譲りたかったと伝えられています。

そこには、2代目将軍頼家の乳母が比企氏一族であり、比企氏が幕府で圧倒的な勢力を持つようになってしまうことを、母である北条政子が不安視したという背景があります。

実朝の乳母は北条氏、強引な手法で頼家を追い落とし、北条氏が幕府内の実権を握るために実頼を担ぎ出します。

そしてその後、北条家の謀略による比企能員の変によって、頼家は将軍職を失って伊豆に配流となり、実朝が第3代将軍に任じられました。

若くして弑された、天才歌人・源実朝

遠江国において12歳で元服した実朝は鎌倉幕府第3代将軍に就きました。

兄の頼家が武芸に秀で活発だったのに反して、実頼はおとなしく口数も少なかったと伝わります。

政治の実権を北条氏に握られており、直接政治に関わることができなかったとされていますが、決して無関心だったわけではないともいわれています。

しかし政治に関われなかったことに気持ちが冷めてしまったかのように、実朝は和歌に没頭することになりました。

また実朝は、和歌に通じることで朝廷との距離を縮め、結びつきを深める目的があったともされます。

実朝は実子がなかったこともあり、源氏の血は自分の代で終わるような気がする、それならばせめて少しでも高い官位をもらっておきたいと側近に伝えたという記録が残っています。

実朝はおとなしく政治に関心がなく、和歌ばかり詠んで朝廷寄りの将軍だったと伝わりますが、実は深い考えを持って朝廷との絆を深めていたというのが近年の説となっています。

和歌から窺える、実朝の才能と性格

「世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも 」

小倉百人一首の93番に「鎌倉右大臣」の歌として選ばれた歌で、源実朝の詠んだ和歌の中では一番有名な歌です。

世の中はいつも変わらずにいてほしい、渚を漕ぐ漁師の小舟の綱を引く様が、面白くまた哀しい人の営みだ。

この歌で実頼は、こういった何でもない日常のありがたさを感じ、この後に自分に降りかかる非日常(暗殺事件)を予期していたかのような、切なく優しい歌となっています。

「大海の 磯もとどろに 寄する波 われてくだけて さけて散るかも」

波が轟轟と打ち寄せる情景をストレートに詠みあげた作品です。

これを爽快な情景を詠った歌だと評する者もいますが、その背景には実朝の孤独と絶望が隠されているとも解釈されています。

「出でいなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」

この場所を出て主人がいない宿になったとしても、梅よ、春になったらまたきっと咲くのだぞ。

質素で優しい歌ですが、この後死に赴いてゆく実朝の心境が込められている切ない歌でもあります。

このように実朝の歌は、優しく繊細ではありますが、大胆な表現も使われており、これが実朝が天才歌人と呼ばれる所以です。

そしてその評論が、実朝の性格をそのまま表しているのではないでしょうか。

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