承久の乱とは、源実朝が暗殺されて後に後鳥羽上皇が鎌倉幕府・執権の北条義時に対して挙兵し、敗れた兵乱のことです。
今回は源実朝暗殺から承久の乱に至る経緯、そしてその結果についてご紹介していきます。
目次
鎌倉将軍の終焉、そして承久の乱へ
鎌倉幕府が源頼朝によって成立して以降、東日本を勢力下に置く鎌倉幕府と、いまだ西日本を勢力下に置く朝廷による、いわば二頭政治が行われていました。
そして初代将軍の頼朝が落馬で落命、2代将軍・頼家と3代将軍実朝が暗殺され、天皇家の血統の源氏将軍が滅亡してしまいました。
その結果、執権である北条氏が政治の実権を握ることとなり、これに対して朝廷の不満と怒りが高まっていきます。
後鳥羽上皇は、朝敵として北条義時を追討する「院宣」を全国の実力者に送り、天皇家の実権を回復すべく挙兵に踏み切ったのです。
鎌倉にいる武士たちは朝廷直々の命令を恐れて動揺しますが、ここで初代将軍・頼朝の正室・北条政子の説得により武士たちは結束しました。
これが有名な北条政子の大演説で、幕府創立以来の頼朝の恩顧を訴え、義時を中心に鎌倉武士の心をを集結させることに成功したのです。
演説の際の「頼朝公の恩は、山よりも高く海よりも深い」という言葉は、現代でも使われています。
承久の乱は、源実朝の計画のうち?!
源実頼は、朝廷にかぶれて和歌ばかり詠み、政治に無関心だったと伝えられています。
しかし実朝は実子がいなかった事もあって、次期将軍は朝廷と深い関係の人物を立てたかったのではないかと推測されます。
近年の研究では、実頼は朝廷の中で歌を通して、御家人たちを束ねることを望んだのではないかという説が有力になっているのです。
源実朝の作る歌は、万葉の香りを継承したストレートな描写と、現代にもつながる深い意味を感じさせるもので、これを詠んだ実朝は決して凡庸ではなく頭の切れる人物だったとされるのです。
実朝は自分が亡くなった後、北条氏に政治の実権を譲るのが許せなかった、朝廷の力を復活させて皇族から将軍を選出したい、そう願ったのではないかという説は完全に否定できないと思われます。
承久の乱、その後
院宣の効果を信じて幕府軍を甘く見ていた朝廷軍は、対応がことごとく後手に回り各地で幕府軍に敗れ、京都を占拠されることになります。
そして後鳥羽上皇は降伏、その後現在の島根県である壱岐へ配流されてしまいました。
朝廷方の多くの公家が処刑・流罪となり、彼らが所有していた土地も没収されて、その大半が幕府方の御家人に分配されることになり正板。
そして幕府は、西日本の監視強化のために「六波羅探題」という機関を新たに設置して、朝廷を監視し主導していくことになります。
その結果、朝廷は完全に幕府の監視下に入り、また多数の鎌倉武士が西日本に移住して、幕府の影響力は西日本・京都周辺に強く及ぶようになりました。
その後幕府は、朝廷の皇位継承も管理するようになり、何事においても朝廷は幕府に伺いを立てるようになりました。
1192年に鎌倉幕府が成立して武士の時代が始まったとされることが一般的ですが、実は本当に武士の時代が始まったのはこの承久の乱の後で、この乱は歴史の大きな転換期だと言えるのです。