鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経は摂家将軍、その「摂家将軍」とは?

源平合戦の勝者である源頼朝が創設した鎌倉幕府ですが、源氏直系の将軍は3代で終焉を迎えてしまいました。

そして突如として4代目から藤原氏である藤原頼経が将軍職に就任、摂家将軍が誕生しました。

今回はその藤原頼経、そして摂家将軍とは何かについて、その経緯と共にご説明していきます。

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藤原氏が将軍になった経緯

鎌倉幕府を創設した源頼朝は、人心掌握術や政治スキルも高く、御家人たちからの信頼も厚かったのですが、頼朝は53歳で急逝、2代目将軍・源頼家が誕生しました。

若くして将軍職に就いた頼家は御家人たちをうまく統率することができず、御家人たちの発言力が強くなり、特に北条氏や比企氏が発言力を強める結果になってしまいました。

そして御家人たちの争いによって頼家は失脚そして斃され、北条氏が担ぎ出した3代目将軍として源実朝が将軍職に就きました。

しかし政治の実権は北条氏が握っており、実朝は傀儡将軍といわれるほど政治に介入できず、鎌倉幕府の将軍の権威は完全に失墜してしまいます。

源実朝は、2代将軍頼家の遺児である公暁によって暗殺され、実朝に実子がいなかった事で、ここで源氏の正当な血筋は途絶えてしまうことになりました。

源実朝の後継将軍は摂関家から

実はこの時、実朝の直系の血族はいませんでしたが、傍系であれば源氏の血を引く者はいたのです。

しかし、そうなると誰を担ぎ出すかによってまた御家人たちの間でいざこざがおこるのは明白です。

次期将軍を平和的に決定する方法は、どの御家人とも関わりのない高貴な血統の者を将軍にして、今まで通り北条氏が政治の実権を握るために、京都から皇族の血を引く者を連れてきて将軍に就任させることになりました。

その発案者は北条政子であり、実朝が存命中にすでに北条政子と藤原兼子との間で話し合いが行われていたとされています。

藤原兼子とは、朝廷の最高権力者である後鳥羽上皇の乳母であり、当時は幕府においても朝廷においても乳母の発言力は強かったことから、この二人の会談は首脳会議といっても過言ではなかったのです。

しかし実際に実朝が亡くなって将軍職の話になった段で、後鳥羽上皇がこの話を強く拒否し、結局この交渉は決裂してしまいました。

そして鎌倉幕府(北条政子)は皇族出身者を将軍にすることを断念し、次期候補として藤原氏出身の藤原頼経に目をつけるのです。

摂家将軍誕生

摂家将軍とは、鎌倉幕府の将軍のなかでも摂家である九条家から迎えられた将軍のことをいいます。

紆余曲折を経て将軍に抜擢された藤原頼経は、両親ともに源頼朝の同母妹の坊門姫の孫であり、一応源氏の血を引いているのです。

藤原頼経は源氏と藤原氏の血を引いており、皇族将軍は断念したものの、源氏と藤原氏の血を引く将軍なら御家人たちも納得するであろうという、北条政子の思惑がみられます。

2歳の藤原頼経は鎌倉に迎え入れられ、数年間は北条政子が尼将軍として頼経を後見して将軍職の代行を行っていました。

藤原頼経はわずか2歳で将軍に抜擢された完全な傀儡将軍で、元服して正式に将軍職に就いた後も、頼経に実権はなかったとされています。

その後頼経は、2代将軍頼家の遺児で15歳年上の竹御所を娶り、竹御所は懐妊するのですが、男児を死産そして竹御所も産褥のために死去してしまいます。

将軍となった藤原頼経ですが、その後これといった実績を残さないまま将軍の位を追放させられ、幼い息子が5代目将軍となりました。

そしてその後藤原頼経は出家し、赤痢のために39歳という若さでこの世を去りました。

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