源実朝の夢と叶わなかった船出とは?

鎌倉幕府第3代将軍・源実朝は、宋(中国)から来た陳和卿という人物に船の建造を命じました。

今回は、造船の経緯となぜ実朝が船を造らせたのかについてご紹介していきます。

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実朝に造船を命じられた宗人「陳和卿」とは

陳和卿(ちんなけい)は、宋から渡ってきた人物で、源平合戦の際に平家に焼き討ちされた東大寺の大仏殿の再興に加わった技術者と伝えられています。

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が陳和卿の功績を聞きつけて「会ってみたい」と所望されたところ、陳和卿は「(頼朝は)天下をとったお方ではあるが、夥しい数の人命を奪った方なので会いたくない」ときっぱり断り、面会は実現しませんでした。

そしてこの陳和卿が、健保4年(1216年)に鎌倉に入り、時の将軍・源実朝に謁見したいと申し出てきたのです。

それを聞いた実朝は大いに喜び、面会が叶いました。

陳和卿は開口一番、「あなた(実朝)の前世は、宋の育王山(医王山とも)の高徳な僧侶であり、その時私はあなたの弟子でした。今お会いして私はそのことを確信しました。この後は弟子としてあなたに尽くします」と言ったのです。

周囲の者たちはにわかには信じられない話と思いましたが、実朝はすっかり信じてしまいました。

源実朝の宋に渡る夢

実朝が簡単に陳和卿のいうことを信じたのには理由がありました。

実は実朝は、5年前に夢の中に1人の僧が現れて、実朝の前世を語ったというのです。

その内容が陳和卿の話と一致していたので、陳和卿の話をすぐに信じたとされています。

源実朝は、宋へ行って育王山を拝みたいと望むようになり、自らが60人の従者と共に船で宋に渡る計画を立てて、陳和卿に命じて大船を造らせることになりました。

実朝は何かに追われるがごとく大船の建造を急がせ、北条義時・時房そして母である北条政子の反対をも押し切って、翌年に完成した船の進水式を由比ガ浜で執り行いました。

しかし、砂浜の上にあった船を海上に曳き出そうとしても、浅瀬であったためか、その船は砂浜を離れることなく動きませんでした。

この理由に関しては諸説ありますが、北条氏が人夫たちに命じて舟を動かさないようにしたというのが通説になっています。

記録にはその時の実朝の心情は一切記されていませんが、相当落胆したのではないかと推測されます。

源実朝はなぜ宋に渡りたかったのか

宋への船出が失敗した3年後、実朝は兄である2代将軍・頼家の遺児・公暁によって暗殺され28歳という若さでこの世を去ることになります。

周囲の権力争いに翻弄され続けた実朝は、自らの運命を知っていたかのような歌を残しました。

「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも」

これは小倉百人一首にも選ばれた有名な歌で、平和な日常がずっと続けばいいのに、という実朝の気持ちが込められた切なく美しい歌と解釈されています。

実朝は、思うようにならない自分の境遇を憂いて、もうすぐ散ってしまうのではないかと予感してこの歌を詠んだのではないかとも推測されるのです。

また陳和卿は東大寺再建の際に、自分の船を造ろうとして東大寺から訴えられるという過去があり、実朝に造船を勧めたのは自分が母国に帰りたかったからだ、という説もあります。

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