源実朝が政治に関心がなかったとされる理由とは?

鎌倉幕府第3代将軍・源実朝は、和歌に傾倒し政治には無関心だったとされています。

今回はその理由と、本当に政治に無関心だったのかについてご説明していきます。

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政治に「関わることができなかった」源実朝

源実朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の次男(嫡出子)として生まれ、兄である2代目将軍・源頼家が追放された後に12歳で征夷大将軍に就きました。

源実朝が優秀な歌人であったこともあって、従来実朝は政治に無関心で歌ばかり詠んでいた人物と伝えられています。

しかし近年では、源実朝は政治に無関心で和歌に傾倒したのではなく、政治に関わりたくても関わることができな状況を憂いて、次第に和歌に没頭したのではないかという説も浮上しています。

実朝は12歳という若さで将軍になり、将軍補佐の名目で政治の実権は北条時政、そして母である北条政子でした。

そして、実朝が成人してからも北条氏の影響力は強く、実朝が政治に関与することはあっても、主導権を握ることはできなかったのです。

源実朝は政治に無関心ではなかった

「吾妻鏡」という鎌倉時代に成立した歴史書があり、それは鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王までの6代の将軍記となっています。

その吾妻鏡にも、実朝が随所で北条氏の政治に意見を述べている場面が描かれています。

また、北条義時に「自分の功績に免じて部下の地位をあげてほしい」と懇願されても、実朝は「家柄的にそれはできない。それをしてしまうと、将来に災いが起こる気がする」と拒否したとの逸話が残っています。

そういったことから、実朝は決して凡庸で政治に関心がない人物だったのではないと推測されます。

また、和歌に傾倒し「朝廷かぶれ」と呼ばれたのも、朝廷との結びつきを深め御家人たちを掌握する目的だったのではないかと思われるのです。

和歌も官位も、政治的活動だった?

実朝は朝廷と結びつきを深め、朝廷から貰える官位に執心していたと伝わります。

源頼朝・頼家の歴代将軍は、必要最小限の官位だけしかもらっておらず、むしろ朝廷から与えられる官位というのは無意味なものとされていました。

しかし実朝は武士として史上初の右大臣にまでのぼりつめ、そのことに関して側近から意見されたこともありました。

しかし実朝は「それもわからないではないが、源氏の血は自分で途絶えてしまうのではないかと思っている。滅びてしまうのなら、その前に源氏の身分を高めておきたい」と返答しました。

また、実朝が実子に恵まれなかったことや、実朝が北条氏が絡むキナ臭い空気を敏感に読み取っていたことで、将来の源氏の行く末を見据えていたのではないかと思われます。

実朝は、将軍が北条氏の傀儡となってしまった今、もはや源氏が将軍になる意味も必要もないと感じ、将来的に皇族出身の将軍を擁立しようと考えたのではないかと推測されるのです。

そのため歌を詠み朝廷と近づいたのも、実朝の政治的活動であったのではないか、という説もあながち荒唐無稽な説ではないと思われます。

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