鎌倉時代の元との戦いはどんなものだった?

鎌倉時代における海外の国との争いとして、元との戦いは有名な話です。

実際にどのような戦いが行われていたのでしょうか。

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そもそも元とはどんな国?

鎌倉時代の日本の元との戦いと言えば元寇のことを指します。

しかし、元寇のことは知っていても、実際に元という国がどんな国なのかあまりよく知らない人も多いのではないでしょうか。

元は、そもそもはチンギス・ハーンが13世紀にモンゴル民族を統一した後、南アジアから中央アジアにかけてモンゴル帝国を築いたことから始まります。

チンギス・ハーンが亡くなると、後継者であったオゴタイ=ハーンはさらにヨーロッパまで遠征してユーラシア大陸の東西へと続く巨大な大帝国へと進化させていくのです。

その後、チンギス・ハーンの孫であるフビライハンが後継者となると、30年以上もなかなか降伏しなかった高麗を服従させその周りの国々もモンゴル帝国の支配におくなどして中国侵略の道へと進めていきます。

そして、それまであった都から現在の北京がある大都に移した際に国の名前を「元」と改めたとされています。

ちなみに、諸説ありますがチンギス・ハーンは世界中において最も子孫を残した人物と言われているようです。

日本が狙われたのはマルコ・ポーロのせい?

鎌倉時代に存在したイタリアの旅行家であるマルコ・ポーロは、彼がジェノバの捕虜となった際に獄中で口述した「東方見聞録」において、日本を「黄金の国ジパング」と紹介したのは非常に有名な話とされていますので、ご存知の人も多いと思われます。

ただ、もしマルコ・ポーロが東方見聞録において日本のことをここまで褒め称えなければ、もしかしたら小さな島国であった日本にわざわざ元が攻め込んでくることもなかったかもしれません。

マルコ・ポーロは、実はフビライハンに厚遇され17年も元に滞在し、フビライハンと一緒に各地を旅行したと言われています。

その際に、マルコ・ポーロが黄金の国と称えた日本に興味を持ち始め、高麗を服属させたのだからその先にある小さな日本だって自分の国に服従するべきだとして、日本に攻め入ることを決めたと言われているのです。

そう考えてみると、日本と元との戦いはつまりはマルコ・ポーロが日本を褒めたことで起きた、ということになると言えます。

マルコ・ポーロがそんなに日本を素晴らしい国だと言わなければ、フビライハンだって何が何でも手に入れたいと思わなかったわけであり、そもそも日本と元との戦いもなかったのかもしれませんね。

日本と元との戦いはどのように決着がついたのか

高麗を落としてその周りの国も自国の属国とした元にとって、日本も服従させるべき属国と考えていた元は、日本に攻め入ることを考えます。

では、日本と元との戦いはどのように決着がついたのか気になるところです。

元は日本に対しても服属しろと迫りますが、その当時の執権であった北条時宗はその要求を断ったものの元が逆上して攻めてくることを考えて、元が襲ってくると予想される場所に「異国警固番役」という役目を御家人に課していざという時の守りを固めるようにするのです。

実際に、元が攻め込んで来たのが1274年の文永の役であり、当時の元は火薬などの軍備が充実していたのに対し日本はまだ騎馬戦で戦う戦法だったために、ことごとくやられてしまったとされているのですが、御家人たちの必死の抵抗によりなんとか元の兵を撤退させます。

幕府としてはまた攻め込んでくることを恐れてさらに異国警固番役を強化するのに加えて御家人たちに防御用の石垣を作らせるなどして備えるのですが、元はすぐには攻めてこず先に中国大陸を大きく支配していた南宋を滅ぼした後、今度は前回の4倍の兵を従えて攻め込んできますが、これが弘安の役です。

2か月にも渡る戦闘だったものの、台風が直撃して神風が吹いたことから、日本と元との戦いは結果的に元が撤退することで幕を迎えたのです。

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