どんなに栄えていた時代もいつかは滅びてしまうものです。
鎌倉時代の滅亡のきっかけとしてはどんなことなのか、そしてどのような末路を迎えたのでしょうか。
目次
なぜ鎌倉時代は滅びたのか
源頼朝が1192年に開設した鎌倉幕府は実に150年と続いたとされていますが、やがて鎌倉時代は衰退の一途を辿り、破滅の道へと進んでいくことになります。
どんなに栄華を誇り長く続いた時代であったとしてもいつかは滅びるものですが、鎌倉時代の滅亡のきっかけとなったことがどんなことが考えられるのか気になるところです。
鎌倉時代が滅びた理由や原因はいくつかのことが要因となって滅びたとされていますが大きな滅亡のきっかけとなったのは、元寇からだったとされています。
元寇とは、チンギス・ハーンの孫であるフビライハン率いるモンゴル帝国が日本を属国にするべく軍事的な圧力によって何度か攻め込んできようとしたのを、当時の鎌倉幕府の将軍であった北条時宗が防衛するために将軍の家臣である御家人たちをその防衛に向かわせたのです。
そのため、元が攻め込んできたものの、将軍の御家人である武士たちが立派な働きをして追い出したために、元によって日本があらされるようなことはなかったのでした。
ただ、そこで問題となったのが御家人たちに対する報酬であり、そこから滅亡のきっかけを作ってしまったといっても過言ではなかったのです。
元を追い出したのに報酬がもらえない!
そもそも幕府のトップである将軍と、その家来である武士、御家人たちの関係は御恩と奉公という主従関係で結ばれてきました。
御家人が将軍のために良い働きをすればその分将軍は御家人たちに報酬を与える、といった関係で鎌倉時代は成り立っていたのです。
そして、御家人たちが戦争をして頑張った分の報酬がその土地であり、武士である御家人たちはその土地を自分の領地とすることで幕府側から報酬を得ていたのです。
しかし、元寇に備えて御家人たちが様々な準備をして元に攻め込むつもりでいたのに実際には攻め込んだわけではなく、やってくる元の人たちをただ追っ払っただけに過ぎなかったのです。
つまり、本来なら国内での戦争の場合はその土地を手にすることで報酬となっていたのですが、今回に限り結果的に元の土地が手に入れられたわけではなかったために、報酬は得られなかったことになります。
その後でしっかりと幕府側がフォローすれば良かったのですが、元が攻め込んできたことにあたふたしてしまった幕府は十分に御家人たちに報酬ができなかったことで、今までずっと続いていた御恩と奉公の関係が崩れてしまったのです。
様々なことが要因となって滅亡への道に
元の進行に備えるために、防衛として元との戦はもちろん石塁作りなどにも積極的に酸化するなどして働いたのにかかわらず、十分な恩賞が得られないことにより御家人たちが困窮していきます。
その御家人たちの生活を何とかしようと9代執権であった北条貞時が御家人たちの借金を帳消しにする「永仁の徳政令」を出し、手放した土地を取り戻せるようにしたのですがあまり効果が期待できず、これが経済を混乱させる原因の一つとなってしまいます。
加えて、その当時実権を握っていた北条貞時の執権の内部争いなど幕府内の混乱に加えて後醍醐天皇の朝廷内の混乱もあり、少しずつ時代が倒幕に傾いていくようになるのです。
倒幕軍が拡大する中でとうとうその勢力を抑えきれなくなり、結果的に鎌倉時代は滅亡を迎えることとなったのです。
何をしてもうまくいかないときは、うまくいかないように見守られているように、時代の流れによって鎌倉時代の滅亡はどんなことをしても阻止することはできなかったのかもしれませんね。