鎌倉時代の問丸が今の問屋の由来?

鎌倉時代に存在していた問丸とはどんな仕事なのでしょうか。

また、問丸が発展して今の問屋となったのは本当なのでしょうか。

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鎌倉時代の問丸ってどんな仕事?

鎌倉時代には産業として様々な仕事が発展しそれに伴い経済や商業も発展していった時代でもあります。

農作物として米が作られるのはもちろん、漆や炭、カキなどの加工物を作るための材料も数多く作られそれを年貢として納めることもあったとされています。

その他にも、紙すきや漆器などを生産してそれを売買することもあり、鎌倉時代には産業が発達することで商業の発達へとつながっていきました。

産業や商業が活発化する中で、「問丸」と呼ばれる仕事も盛んになったのですが、鎌倉時代においてどんな仕事をしていたのか気になるところです。

問丸は、主に鎌倉時代や戦国時代にかけて年貢の運送管理や中継ぎ取引などを請け負った業者のことです。

保管業と輸送業を主流に行い、運ぶ方法としては船を用いて海路で物資を運ぶことが多く港や河川近くに居住して倉庫を構えて、そこに物資を保管する保管業も行っていました。

言ってみれば今でいうところのヤマト運輸や佐川急便などの配達業務と保管業務を請け負っていたとされています。

では、なぜ鎌倉時代に問丸の様な運送業者が必要だったのでしょうか。

なぜ鎌倉時代には問丸が必要だったの?

荘園にいる農民たちは作物を作ってそれを年貢として納めることが多く、鎌倉時代は一部では貨幣で年貢を納めることもあったようですがほとんどの場合米で年貢を納めていました。

せっかく作ったその何十キロとある米を年貢として運ぶにも、非常に大変な思いをしていたのではないかと思われます。

今の日本のように道路が整備されているわけでもなく、かといって新幹線のような早い乗り物があるわけではなかったため、地頭や荘園領主に年貢を届けるにも大変なことが予測できます。

問丸は、そんな荘園からの年貢を保管し輸送するための仕事として必要とされていたのです。

基本的に問丸は海路を利用して年貢を運んでいたわけですが、鎌倉時代後期になると陸上輸送業者である馬借と連携・統率して仲介業者または配送業者として独自の地位を築いたとされています。

そんな理由から、問丸のような運送業を商売にしようという人があらわれるのは当然のことだったのかもしれません。

問丸が発展して問屋に?

今現在の日本で問屋街といえば浅草のかっぱ橋や大阪の船場や松屋町、名古屋の明道町を思い出す人も多いのではないでしょうか。

現代のイメージで言うと、問屋街といえばプロの料理人や職人などが使う道具を揃えている道具街というイメージが強いと思われますが、特にかっぱ橋は最近では外国人観光客も増えてそれ以前の問屋街のイメージとはまた違ってきているようです。

実は、問屋街の「問屋」は、そもそも問丸が発展したものであることをご存知でしょうか。

問丸はそもそも保管業務と輸送業務を行っていたのですが、その問丸の中から輸送業務を切り離して商品の卸売りや保管を主な仕事とする人も出てきたのですが、これがいわゆる今でいう問屋の始まりではないかと思われます。

室町時代になると保管や卸売りの他に金融業も行うようになり、江戸時代にはさらに発展して各宿場に設置されて人の移動手段として人馬の提供業務を行うようにもなります。

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