源頼朝の父は?弟は?そして現在まで続く家系図とは?

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝は、清和天皇を祖とした河内源氏の流れをくんでいます。

今回は源頼朝の祖先、そして父や兄弟について簡単にご紹介していきます。

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源頼朝の祖先、そして父・源義朝

源頼朝は、清和天皇を祖とする河内源氏の流れをくんだ、源義朝の三男として生まれました。

清和天皇は平安時代前期の第56代天皇で、その子の貞純親王から、清和源氏の血統が続いてきたのです。

ちなみに、足利尊氏や武田信玄もこの河内源氏の流れをくんでいます。

1156年に、第75代崇徳上皇と第77代後白河天皇との間で、朝廷内の皇位継承問題による内紛「保元の乱」がおこりました。

源義朝は、平清盛らとともに後白河天皇方について勝利、そして崇徳上皇方について敗北した父である源為義や弟たちを処刑してしまいました。

そして「平治の乱」がおこりますが、その理由として後白河上皇と二条天皇との対立、そして保元の乱での源氏と平氏の恩賞の差などがあげられています。

その後朝廷が平氏を後押しするようになり、義朝ら源氏は討伐対象となり、平氏全盛の時代へと突入していきました。

源頼朝の兄弟

源義朝には、10人以上の子供がいたとされていて、源頼朝は三男にあたります。

三男である頼朝が源氏棟梁の座を義朝から引き継いだのは、兄弟のなかで頼朝の母の身分が最も高かったからだとされています。

頼朝は、父・義朝が平治の乱で敗れそして殺害されたために伊豆へ流刑となり、そこで在地の豪族の娘・北条時政の娘の北条政子と知り合って駆け落ちしたという逸話は有名です。

その後頼朝は、以仁王の綸旨を受けて関東野武士を率いて挙兵しますが、そこには妻・政子の実家北条氏と、異父弟の源範頼や源義経の協力がありました。

そして頼朝は関東南部を平定し、鎌倉に拠点を構える鎌倉幕府を開きます。

そして文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすのですが、その後異父弟の範頼や義経との対立が表面化していくのです。

異父弟・源範頼、源義経との対立

源頼朝は1147年、範頼は1150年、そして義経は1159年に生まれました。

頼朝の母は熱田大宮司の娘で身分の高い女性でしたが、範頼の母は遠江の宿場の遊女、そして義経の母の常盤御前は天皇の奥方の下働きという身分の低い女性でした。

当時は嫡男など一部を除き、子供の養育は母方が行うのが通例になっていたので、範頼・義経は源氏の一員として育てられていませんでした。

範頼は、兄・頼朝の挙兵に応じて挙兵し、時には義経と合流し見事な指揮の元、戦に貢献しました。

しかしその後、義経は兄・頼朝の命によって討たれてしまうのです。

源義経は優れた武将ではありましたが、兄の頼朝に対して反抗的な行動をとることが多く、頼朝は義経に不信感を持つようになったのです。

そして義経追討の命に逆らった範頼をも、頼朝は修善寺に幽閉され刺客によって討たれてしまいます。

その後、将軍の座は嫡子である2代目・頼家、3代目・実朝に引き継がれますが、その二人も非業の最期を遂げ、また生き残った娘・竹御所も子を残さなかったことで、頼朝の子孫は断絶してしまいました。

しかし、源義家から始まった源氏の血脈は今も続いています。

室町幕府を作った足利尊氏、そして義家の弟の源義光の子孫は武田信玄で、彼らの子孫は現在にも続いていることから、源氏の血脈は今も続いているといえます。

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