源実朝が朝廷と繋がりを深めたかった深い理由とは?

鎌倉幕府第3代将軍・源実朝は、朝廷文化の一つである和歌をとても愛し、朝廷から貰う官位にも強い関心があったと伝わります。

今回は源実朝が朝廷と繋がりを深めたかった理由についてご紹介していきます。

スポンサーリンク
kamakura-jidaiレクタングル大

官位を欲しがった源実朝、そしてその理由

鎌倉幕府を開いた源頼朝、そして2代目将軍・頼家は、朝廷から必要最小限の官位は貰っていますが、それ以上の官位を要求することはありませんでした。

元々源頼朝は、朝廷に依存しないことを前提としたシステムを作り上げるために鎌倉幕府を作り、むしろ朝廷から「何かを頂く」という行為はあまり歓迎すべきものではなかったのです。

しかし、3代目将軍の実朝は官位にこだわりました。

朝廷との結びつきを深めて、1218年には武士として初めて右大臣にまで上りつめたのです。

そのことに関して、側近からも「今は征夷大将軍の官位だけで満足して、もっと年配になってから兼務したほうがいい」と諫められたと伝わります。

この言葉の意味とは、将軍たるもの朝廷に媚びを売るようなまねはせず、もっと堂々となされよ」ということだったともされています。

そしてその時実朝は「言ってることは分かるが、源氏の血統は自分で途絶えてしまうのではないかと思っている。滅びてしまうなら、その前に源氏の身分を高めておきたい」と答えたと伝わっています。

自分の置かれている境遇を把握していた源実朝

「亡くなってしまう前に、源氏の身分を高めておきたい」は、解釈によっては自らの未来を予感しているような、意味深な言葉です。

諫めた側近も、その回答に何も答えることができずにその場をあとにしたとされています。

源実朝は将軍職に就いても、実権は北条氏の元にあり、自ら政治を行うことができませんでした。

実朝が政治に関心がなかったと伝わることも多いのですが、実際には政治を執りたくても執れない状況だったのです。

実朝は、将軍が北条氏の傀儡となってしまっている状況で、もはや源氏が将軍職を引き継ぐ必要はないのではないかと考えていたのではないかと推測されるのです。

また実朝は実子に恵まれなかったため、朝廷と結びつきを深めて、将来は皇族出身の将軍を擁立しようとしたのではないか、ともいわれています。

現にその後実朝は子に恵まれることもなく、若くして甥に暗殺され、次の将軍は藤原氏の人物が選ばれているので、実朝の予想は荒唐無稽なものではなかったのです。

実朝が朝廷と繋がりを深めたかったもう一つの理由

源実朝というと、和歌には秀でているものの、政治には関心がなく非力で無能な人物というイメージが定着していました。

しかし近年では、成人してからの実朝は政務にも意欲を示し、実朝を軽視していた北条義時も一目置くようになったとされているのです。

さすがに北条氏の介入を断つことはできませんでしたが、それでも実朝は少しずつ独自色を打ち出していきました。

実朝は歌人として優れた才能の持ち主で数々の名歌を詠みましたが、その歌を調査し研究した結果「政治家としての実朝」も見えてきたのです。

実朝が和歌に傾倒した真意は、政治から逃れたいという理由ではなく、一流の文化人であった後鳥羽上皇に倣って、御家人たちの上に君臨して朝廷と渡り合うためだったのではないかという説が有力になっているのです。

そのことを初めに唱えたのは、明治時代の俳人・正岡子規です。

正岡子規は、源実朝が残した和歌の中に剛毅な精神性を読み取って、「今まで凡庸とされていた評価は誤っている。実朝はしたたかで積極的な君主だった」としています。

この説はいくつかの学術書に述べられており、源実朝の実像に迫る重要な資料となっています。

スポンサーリンク
kamakura-jidaiレクタングル大

kamakura-jidaiレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする