甥の公暁に討たれた鎌倉幕府第3代将軍・源実朝の墓は、鎌倉の寿福寺にありますが、首は別の場所に葬られています。
今回は、なぜ実朝の首は別の場所に葬られたのか、その謎についてご説明します。
源実朝の墓
一般には、源実朝の墓は鎌倉の寿福寺に、母の北条政子の墓の隣にあるとされています。
しかし実朝の首は、他の所に葬られているのです。
武士が亡くなると墓が作られましたが、鎌倉時代の墓は、現在の墓のイメージとは違うものでした。
遺灰や骨壺の上にそのまま墓を作る場合もありましたが、故人のゆかりの場所に五輪塔(ごりんとう・5つの石を組み合わせたもの)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)といった供養塔を建てました。
鎌倉時代に書かれた「吾妻鏡」には、源実朝は高野山の金剛三昧院に、北条政子は勝長寿院に葬られたと記されています。
勝長寿院とは鎌倉滑川にあった寺院で、源頼朝の父・義朝と義朝と最期をともにした家臣の鎌田正清を弔ったのが始まりと伝えられており、頼朝の墓も初めはここにあったといわれています。
実朝の首はどこに?
建保6年(1218年)、武士として初めて右大臣になった実朝は、翌年1月27日、それを祝うべく雪の積もる中を鶴岡八幡宮に拝賀しました。
その帰途に、鶴岡八幡宮境内で甥の公暁(2代目将軍・頼家の子)に「親の仇」と襲われて、実朝は絶命してしまいました。
鎌倉幕府の有力御家人で、北条氏の専横を憎む三浦義村という人物が、実朝を討った公暁をそそのかした張本人と伝えられています。
公暁は実朝の御首を持って三浦義村の元に逃走したのですが、三浦義村は北条氏打倒の企みを秘匿するため、または北条氏から公暁を討つように命じられたため、公暁は三浦義村の家来によって討たれてしまいました。
その時以来実朝の御首は行方不明となり、実朝は胴体だけ勝長寿院に葬られましたが、失った御首を三浦義村の家臣・武常晴が探し出して葬ったとされています。
秦野市にある源実朝公御首塚
実朝の失われた御首を、三浦の武将・武常晴が探し出して葬ったのが、神奈川県秦野市東田原にある首塚であると伝えられています。
武常晴は、実朝暗殺の際に三浦氏によって差し向けられた家臣の一人で、公暁との争いの中で偶然に実朝の御首を手に入れました。
しかし武常晴はその後御首を三浦氏に持ち帰らず、当時この地を治めていた波多野忠綱に供養を願い出て手厚く葬られたとされています。
その後波多野忠綱が、源実朝の篤い帰依を受けていた僧・退耕行勇を招き、御首塚の近くに金剛寺を建てて供養しました。
その際に、木造だった御首塚の五輪塔を石の造りに換えたとされており、首塚を飾っていた五輪木塔は、鎌倉国宝館に収蔵・展示されています。
この首塚の近くには、一流の歌人だった実朝の歌碑があります。
「物いはぬ 四方(よも)のけだものすらだにも あはれなるかなや親の子を思ふ」
これは金槐和歌集におさめられている歌で、「ものを言わないあちこちにいる獣でさえも、親が子を思うのはいとしいものだ」という、実朝の気持ちが込められています。