鎌倉幕府3代将軍となった源実朝ですが、若くして非業の死を遂げてしまいます。
今回は源実朝の波乱の生涯と最期、そして墓についてご紹介していきます。
源実朝の将軍即位
源実朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男(次男)として生まれて、兄の2代将軍・頼家追放の後に12歳で征夷大将軍の座につきました。
官位の昇進も早く、武士として初めて右大臣を務めることになりましたが、政治自体はほぼ執権の北条氏が執りました。
源実朝は建久3年(1192年)鎌倉で生まれ、幼名は千幡、父は源頼朝、母は正妻の北条政子です。
実朝の兄であり2代目将軍の頼家は武芸に長けた人物でしたが、実朝は蹴鞠や和歌など、朝廷貴族の文化を愛する人物だったとされています。
その実朝が3代目将軍となったのは1203年、兄の頼家の将軍在位を望む比企氏と、実朝を将軍に就かせたい北条氏との間に争いが起こり、その結果比企氏が敗北して滅亡し、北条氏が推す実朝が就任したのです。
つまり源実朝は、母である北条政子・北条氏に担ぎ出されて将軍職に就いたわけで、実際の政治は11歳という幼い実朝ではなく、将軍補佐の名目で北条時政が握ることになったのです。
源実朝と北条時政
北条時政は、実朝の乳母である阿波の局の父で、実朝にとっては祖父のような存在でした。
北条時政は、本来は将軍自ら判断すべき決定権限を、全て自分の署名で行い、権力を掌握しました。
しかしその後、北条時政は実朝を失脚させて、娘婿である平賀朝雅という人物を、将軍にしたいと望むようになってしまいます。
北条時政と牧の方(時政の後妻)が実朝を排除して平賀朝雅を将軍にしようとしていることに、北条義時と北条政子が激怒します。
平賀朝雅が将軍になってしまうと、北条義時と政子は政治の実権を失ってしまうことになるからでした。
そして義時と政子によって、時政と牧の方を鎌倉から追放し、時政は伊豆に幽閉されて生涯を終えることになります。
幼いころは北条時政に実権を握られ、青年期になっても北条義時と政子に実権を握られた源実朝は、決して政治に無関心だったのではなく、主導権を握ることができなかったために政治を執り行うことができなかったという方が正しいと思われます。
源実朝の最期、そして墓は?
源実朝は自分の立場を憂いたために、和歌の世界に没頭していきました。
当時の名歌人・藤原定家とも交流があり、万葉集を定家から貰って歓喜したという逸話が残っています。
1218年末に、源実朝は右大臣になり翌年の1月に実朝の昇任祝いが鶴岡八幡宮で行われました。
そしてその式の途中、源実朝は2代目将軍の息子である公暁に襲われて命を落としました。
公暁にとって、父親を追放されて暗殺され、そしてその後に将軍になった源実朝は親の仇だったのです。
そしてその後、公暁も討たれてしまい、ここで源氏直系の将軍の血は絶えてしまいました。
源実朝享年28歳、亡骸は鎌倉の寿福寺に母・政子の墓の近くに葬られました。