鎌倉時代の永仁の徳政令について!借金がチャラに?

鎌倉時代には様々な法律ができたとされています。

鎌倉時代にできた永仁の徳政令とはどのような法律だったのでしょうか?

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永仁の徳政令ができた背景

永仁の徳政令は1297年、鎌倉幕府によって発布された法律ですが、なぜそのような法律ができたのでしょうか。

永仁の徳政令が発布されたのには、元寇が大きく関係しているとされています。

元寇は、1274年と1281年にチンギス・ハーンが築いたモンゴル帝国を元と改め、その孫であるフビライハンが日本を自分の国の属国とするために襲来した事件です。

二度に渡って襲来してきたものの御家人たちの必死の抵抗によって日本は侵略されることなく無事に国土を守ることが出来たとされています。

ただ、元から国を守ることが出来たものの、元寇による影響で御家人たちの生活が困窮してしまうことになるのです。

その理由としては、元を追い払って日本を守る働きをした御家人たちに対して、幕府は本来与えるべき報酬をしっかりと与えなかったことが原因とされています。

そもそも、御家人たちが戦をするにあたって、その戦で功績を残した場合その戦で獲得した土地を御家人たちの報酬として与えるのが基本だったのですが、元寇の際にはそもそも元に攻め入ったわけでなくただ日本に襲来してくるのを追い払っただけとなったため、領地を獲得することが出来なかったのです。

御家人たちは元寇に備えて塀や石造りの壁を強化するなどして財産をなげうったのに、その分の報酬が得られないということはお金が無くなり借金をしなければ生活できないようになったのです。

そのため、幕府は永仁の徳政令を発布して少しでも御家人の生活を楽にしようと考えたのでした。

永仁の徳政令の内容は?

では、実際に永仁の徳政令とはどのような内容だったのかについて解説します。

簡単に言ってしまうと、御家人が作った借金を帳消しにしてくれる法律だったとされています。

鎌倉時代は今のような貨幣経済が浸透してきたこともあってお金を貸してくれる金融業を営む人も出てきたとされています。

元寇によって生活が苦しくなった御家人たちは、そういった金融業者に自分の所有する領地を売ったり質に出すことでお金を得ていたのですが、借金が積もり積もって膨れ上がっており、生活がままならない状態となっていました。

御家人たちの生活が困窮すれば、それはそのまま幕府にも影響しますのでそれを何とか払拭するための打開策として永仁の徳政令ができたわけです。

そのことから、借金のために手放した土地をまた取り戻すことが出来るという内容や、再審請求の禁止をするなどの内容もあったとされています。

鎌倉時代当時は、御家人たちだけでなくその上にいる幕府たちもお金がない状態であったため、元寇によって御家人たちに報酬を十分与えられなかった分の償いとして永仁の徳政令を発布したとも言われています。

実際の効果はどうだった?

御家人たちの困窮を救うために、幕府が永仁の徳政令を行ったことで実際にはどれほどの効果が期待できたのか気になるところと言えます。

結論から言ってしまうと、永仁の徳政令が出たところでさほど効果は期待できず、御家人たちの困窮は変わらなかったようです。

元寇において幕府からしっかりとした報酬がもらえなかったことで、御家人たちの生活は困窮し借金をしなれば生活できない状態となっているわけですが、借金をゼロにしたからといってお金が増えるわけではありません。

生活のために借金をしているのだから、当座の借金がチャラになったところでまたお金が必要となってくれば借金せざるを得ません。

そして、永仁の徳政令が出たことにより、今まで御家人たちにお金を貸してくれていたところも「どうせ返してくれないから最初から貸さない」という風潮になり御家人たちに対してどこもお金を貸してくれなくなったのです。

借金をしなければ生活できないのに、幕府が余計な法律を作ったせいでますます御家人たちは窮地に追い込まれたことになりました。

結果的に、それが御家人たちの幕府に対する不満へとつながり倒幕の蜂起へとつながっていくことになります。

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