鎌倉時代の北海道と九州について

北海道と九州といえば、どちらも観光地として有名な土地とされています。

鎌倉時代においては、どのような状態だったのでしょうか。

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蝦夷地と呼ばれた北海道

鎌倉時代は武家政権となり武士が中心となって政治を行うようになると、その影響を受けて独創的な様々な文化や仏教における宗派が誕生しました。

その頃の北海道や九州はどのような状態だったのでしょうか。

まず北海道についてですが、鎌倉時代の北海道は以南の本州の人々から「蝦夷地」と呼ばれ、先住民族であるアイヌの人々によって独自の文化を遂げていたとされています。

蝦夷地に本州の日本人が移住したのは平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての頃であり、移住した人々は戦に敗れた武士や一般漁民、犯罪者でした。

その後、鎌倉時代に入ると蝦夷管領が設置されるようになり、蝦夷地を支配する権限を任せられた安藤氏がその当時の執権政治の中心であった北条義時の代官として派遣されました。

当然ながら、本州の和人が徐々に勢力を増し移住してくることで先住民であるアイヌ人と摩擦が起きることは目に見えており、戦いを繰り返していました。

その中でも最大の戦いがコシャマインの戦いであり、そのコシャマインの戦いを鎮圧した蠣崎氏によって北海道は統治を受けることとなります。

鎌倉時代の九州はどうだった?

では、鎌倉時代における九州はどのような感じだったのでしょうか。

九州は、大宰府という鎌倉時代以前の時代から中央官庁の派出所が機能しており、また貿易を行う玄関口として活気づいていたとされています。

鎌倉時代は日宋貿易が盛んとなった時代だったこともあり、大宰府はその中心となっていたのです。

大宰府の方も、貿易を行うなら大宰府管理の下で行うのを決めつけていたのですが、そこをうまくかわして自分の良いように進めていったのが平忠盛、平清盛親子でした。

本来は大宰府を通して日宋貿易を行わなければならなかったのを、中央から近い現在の神戸である福原に港を開いてそこで宋との貿易をすることを考えたのです。

また九州地方は大分の別府にある鉄輪温泉などが観光都市として有名ですが、それも鎌倉時代に始まった湯治文化が影響しているとされています。

征夷大将軍と鎮西奉行

ここで、鎌倉時代における北海道と九州に関係するお話をご紹介しましょう。

源頼朝が平清盛の討伐のために任命されたのは征夷大将軍であり、これは鎌倉時代や室町時代など幕府におけるトップを意味するのだと思われている人が多いのではないでしょうか。

実はそうではなく、もともとは現在の北海道である蝦夷の豪族であるえみし討伐のために設置された臨時の役職とされていたのです。

それが、武士が台頭する時代となると、事実上軍事的行為を担当することとなる最高司令官が、自然と征夷大将軍を任命されるようになったのです。

また、鎌倉時代は九州のことを鎮西と呼んでいたのですが、その鎮西の御家人の統率を行う機関を鎮西奉行として源頼朝が設置します。

本来は、平家の残党や源義経の逮捕を目的として設置された役職だったのですが、のちに九州の御家人の統括を行うようになり、同時に大宰府の機能も引き継いだとされています。

六波羅探題が設置されるようになると、次第に鎮西の統治も六波羅探題が勤めるようになるのですが、元寇後は九州の更なる防衛強化を考えて鎮西探題が設置されるようになったと言われています。

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