宮将軍の一人久明親王、宮将軍が鎌倉幕府で果たした役割とは

平家を倒し鎌倉幕府を創設した源頼朝、そして鎌倉将軍は7代で終焉を迎えます。

今回は、鎌倉幕府のあまり知られていない、藤原頼嗣らの「摂家将軍」、久明親王らの「宮将軍」についてご説明します。

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3代で終わった、源氏直系の将軍

鎌倉幕府の始祖・源頼朝が落馬して逝去した後、2代目将軍の座についたのは嫡子である源頼家でした。

そして頼家と頼家の後ろ盾となる比企氏を失脚させるために、北条氏は頼家の弟・実朝を次期将軍に立てようと目論むのです。

その結果、頼朝・頼家・実朝と3代続いて源氏が鎌倉将軍となりましたが、北条氏の謀略によって暗殺された(とされる)頼家の遺児・公暁が実朝を襲って討ち取るという事件が起こり、ここで源氏の直系の血脈は途絶えてしまうのです。

そしてこの後の将軍は、高貴な血統の人物の中から選出されることになります。

摂家将軍・宮将軍の誕生

源実朝が討ち取られて源氏直系の将軍は絶えてしまい、執権の北条氏は皇族の人物を将軍職に就かせることを希望します。

しかしそれは叶わず、摂家から将軍を迎えることになり、九条家の藤原頼経が第4代将軍の座につきました。

摂家から迎えられた「摂家将軍」は、第4代藤原頼経とその嫡男である第5代藤原頼嗣の二人です。

そして第4代藤原頼経の次に将軍職に就いたのは、後嵯峨天皇の第一皇子・宗尊親王でした。

朝廷から迎えた将軍ということで「宮将軍」「皇族将軍」と呼ばれ、第6代宗尊親王・第7代惟康親王・第8代久明親王・第9代守邦親王までの4人の将軍のことを指します。

そして第9代守邦親王が将軍であった時代に、足利義詮や新田義貞によって鎌倉は陥落、ここで鎌倉幕府は滅亡してしまいました。

こういった経緯から、宮将軍である久明親王らの将軍としての事績はほとんど残っていません。

政治に関与できなかったことから歌を詠むことに執心し、武家を中心に歌壇が隆盛を極めたということが、唯一後世に残した功績といえます。

北条氏の影と傀儡将軍であった摂家将軍・宮将軍

実は北条氏が就いた「執権」は、鎌倉幕府成立当時には存在していませんでした。

1203年、源頼朝の妻であり「尼将軍」と呼ばれた北条政子の父・北条時政が、源実朝を3代将軍に立てて幕府の実権を握った時に、自らの地位を「執権」と称したのが始まりだとされています。

執権というのは元々「将軍の後見職」で、具体的な決定権はなく、将軍との密接な私的関係で将軍の権力を代行する役割でした。

摂家将軍・宮将軍を幼いうちに立てることで、執権である北条氏は後見人の立場ながら、実質的な幕府の実権を握ることができたのです。

北条氏は、成人して扱いづらくなった、つまり言う事をきかなくなった将軍を京都に送還して、新たに年少の将軍を迎えるということを、9代将軍守邦親王まで繰り返してきました。

そうすると、なぜ北条氏は自ら将軍にならなかったのかという疑問が浮かび上がります。

これには、北条氏が一地方武士に過ぎなかったことで地位が低かったことで、御家人や朝廷から将軍として認められないという理由がありました。

また、あえて将軍にならないことで朝廷からの制約を受けずに政治を動かすことができたというメリットもあります。

北条氏が傀儡将軍の影で政治を動かしていた鎌倉幕府、摂家将軍・宮将軍は自分たちの境遇を憂いて歌を詠むことくらいしか日々を過ごす術がなかったとも推察されるのです。

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